松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

自己の否定である以上当然のこと

親鸞の、教義が、弥陀の本願を信じて念仏すべきを説くことは周知の如くである。それは「他の善も要にあらず」「悪をも恐るべからず」というほどの一向専修の念仏である。しかし、それが必ずしも真に排他的な意味ではない事はいうもでもない。
(黒田俊雄「真宗教団史序考」p212 黒田俊雄著作集4 isbn:483183324X C3321) 

これに対し次のような自注がついている。

親鸞は「まづよろづの仏菩薩をかろしめまいらせ、よろづの神祇冥道をあなづりたてまつるとまふす、このことゆめゆめなきことなり」(御消息集第四通)といっているが、他の否定ではなく自己の否定である以上当然のことである。

 ここを読んで私はうーん、「当然のこと」 と感心した。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061123#p1 の表現でいえば「すでに真偽が決定されている超越的価値」の立場に立ち、それを守り表現していこうとすればどうしても他を否定することになる。
 無学な底辺庶民と同じように矛盾にみちた現実の諸関係のただ中で生きることこそが「念仏」であってみれば、それは当然「他の否定」つまり超越の立場ではありえず、「自己の否定」でしかありえないのだ。