松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

精神に弱者はない。

10/22の集会での出来事について、

質疑応答の彼の最後のセリフが感動的でした。
・・・

と書いたまま沈黙していました。
そのセリフというのは短く簡明なもので、

精神に弱者はない。(野田正彰)

というものです。
 この講演は、政治的な集会のためのもの、悪く考えれば人集めのために有名人をもってきただけのもので内容は二の次と考えられますが、そのような予見に反し真剣なものでした。質疑応答のために小さな紙が配られ、その中の数件に野田氏は応答していました。すべての権力はこのような質問、批判、に対して開かれているべきでしょう。
現行教育基本法の「直接」という言葉にこのような本質的公開性へのベクトルをかぎ取り保守派は何としてもこれを消去したいと思っているのでしょう。
「第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」

 ある紙片を読み始めた野田氏は、その紙片の言葉がその紙片の裏にまで続いていて自分の言葉で要約するのが困難であることを認識するや、“書いた方、自分で発言してください”と強く促しました。それに応えその男性(30歳くらいかな)は、少しの時間しゃべりました。自分が引きこもりであること、しかしこのような運動には参加したいと思っていること、しかし引きこもりは社会的発言をする権利を持たないという思いが自分にもあり社会にはもっと強くある、だがそれは違うのであってそのようなわたしたちと連帯していく事により運動はもっと拡大していくであろう、というようなことをだらだらと彼はしゃべり、わたしたちは同意の歓呼で応えました。
 そのとき彼が自分のことを弱者とよんだのに対して、野田氏は上記のように批判したのでした。
 精神に弱者はない。ただ社会は常にそういうしゃべり方はおかしいとか勉強ができないといけないとか無数の基準で精神を締め付けてくる。だからしゃべれなくなったり自分を弱者と思ってしまうのはよく分かる。しかしそれは社会が勝手に設定した基準でものごとを計っているからにすぎない。本来、精神に弱者はないのである。というようなことを野田氏は言われました。
 私は感動しました。
 ただここにはデリケートな問題があります。弱者を発見しそれを弱者として宣伝することがある種の運動の基本だったりします。いままでひどく苦しみながらも無視されてきたその人は弱者というレッテルを得ることにより社会的注目を集め、運動の焦点になることができます。そしてその当事者が語ることは運動にとって最大の力になります。しかしそのようなとき果たして弱者という言葉は必要なのか。
 ある人が語らないあるいは語っても誰も聞かない場合、彼女/彼はサバルタンとよばれます。このような状態を脱してもなお彼女/彼は弱者と呼ばれ続ける権利を持つでしょうか。例えばDV被害者の場合、本人がDV被害者としての自己確認を獲得したとしてもなお加害者が存在するため行政などの援助は必要です。それ以外の場合も被害者は常に心的外傷などで傷つきケアが必要なのではないでしょうか。そのようなことを最もよく知っているのは野田氏自身ないでしょうか。
 そうだとすれば「精神に弱者はない。」は単なる空疎な励まし言葉に過ぎないのではないでしょうか。そうではない、と野田氏は言うのです。社会が精神に基準を強制してくるその基準が強弱を生み出すのであり、それは精神にとっては非本質的なことであると。

 以上、10/22の集会で起こったことの報告を含めて書いてみましたが、事実は上記とは全く違うとか野田氏の思想を捉え損ねているとかいう可能性もあります。ご批判などよろしくお願いします。
〈こころ〉という言葉を鍵に教育改革(だけにとどまらない)が押し寄せてきている。そのとき〈弱者〉ということばの使い方が厳しく問われる事になる。
「精神に弱者はない。」というセリフはもちろんデカルト的響きがある。デカルトを読むこともわたしたちの生政治との戦いの役に立つのだ。