松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

死に至る遊行

 勤め先をリストラされ、失業中です。求職活動はしていますが、再就職のメドは立たず、「負け組」そのもの。惨めな男です。今の日本は格差社会と言われていますが、能力差社会になってきたと思います。能力が低い人間は落ちこぼれるしかない。ある意味、現実に立ち向かわず甘えていると思います。わかっていますが、現実は厳しく、冷たいです。一度負けてしまうと、中年には浮上するチャンスがありません。残された道は自殺しかないと思うのですが、私の考えはおかしいでしょうか? (東京都 無職男性 46歳)

(略)
「負け」ても生活していけること、「能力」以外の「尊厳のリソース」の選択肢が多元的に存在すること、それがどうしても必要だ。
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060703#p1

自然淘汰という言葉がありますね。自然界では弱いものは生き残っていけません。強い者だけが生き残ることによって、その種は強くなっていくのです。同情はこういった自然界の法則をさまたげようとするものです。できそこないに同情するわけですから。
ニーチェ『アンチ・キリスト』p23 isbn:4062723123

 ニーチェは上の無職男性の自殺を後押しする方が良い、と言っているのだろうか。そこまで言っているわけではない。その無職男性に対し同情することが正義だとするキリスト教倫理を批判している。その男性=彼はかなり冷静に自分の現在と将来をみすえ、自殺という言葉を出している。
ただまあ「残された道は自殺しかないと思う」って他人が言ったらお前はそれで自殺するのか?という突っ込みは可能だ。客観的情況として「自殺しかない」〜主観的に「自殺しかない」と思いつめる〜実際に自殺あるいは自殺未遂する、というのはそれぞれ実存的に千里の径庭がありそんなにスムーズに移行できるものではないのに、あまりにもあっさり書いている。あっさりしている=自我が強くないところも負け犬の一徴候なのか。
「「能力」以外の「尊厳のリソース」の選択肢」という問題をめぐって、コメント欄で議論があった。
おいなり、という方が次のように発言した。

煽りでなく真剣に思うのですが、「能力以外の尊厳のリソース」の多様性を担保するのは、(俗世間で上昇できるという意味での)能力を持つ人々の「電波」(あるいは、独善、視野狭窄、想像力の欠如、等々)許容性です。

 わたしは、本田さんおよびおいなりさんに共感する立場に立つ。しかし彼女/彼らは、“(俗世間で上昇できるという意味での)能力”以外の能力に対し、言葉をあたえることをしない。あるいは、「電波」(あるいは、独善、視野狭窄、想像力の欠如、等々)といったはなはだしマイナスイメージにあふれた言葉を与える。能力といえば“(俗世間で上昇できるという意味での)能力”である、と考えるのが、わたしたちの世界の常識であるのだろう。(もちろんゴッホみたいな天才の存在を否定するわけではないがそれはあくまで例外だと。)

人はみな生れ落ちるとき、無垢にして清純なる魂を持つ最も神に近しき存在として生まれる。

という断言は、ロリコンゲームの中だけでしか許容されないのか。神、清純、美という価値は資産家の子女を連想させるという価値しかないのか。


さて、

仏の教え給へることあり。「心の師とは成るも、心を師とするなかれ」と。
p19 鴨長命『発心集』角川文庫S54年

昔の常識によれば、俗世の生活とは「毎日毎日をただ色・声・香・味・触の五境に応ずる欲望に引かれて暮らす」ことにほかならず、すなわち「死ねば地獄の底におちいるにちがいない」ものでしかなかったのである。
 したがって、「残された道は自殺しかない」と思い詰めた場合は、図書館に駆け込み、「捨ててこそ」と唱えた一遍上人かそういった系統の入門書を読み、直ちにそこから家族を捨て、遊行の旅に出ることを勧めます。