松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

幸いだ、心の貧しき者は

時は成就された、神の国は近づいた。きみたち悔い改めその善い知らせを信ぜよ。(マルコ1・15)(p81吉本隆明『論註と喩』)
時は満ちた、そして神の王国は近づいた。改心せよ、そして福音の中で信ぜよ。(新約聖書翻訳委員会訳)

神の王国とは「人間や悪魔のものではない、神の、終末的な、王的支配とその妥当領域」だと岩波版の用語解説にはある。また、福音とは良き知らせのこと。戦争に勝利し平和をもたらす神的王の誕生ないし即位に関する良き報知を指す、ギリシア語の用法を転用したもの、だとある。終末論思想を除けて考えると何を命じられているのか、よく分からない。

幸いだ、乞食の心を持つ者たち、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
(略)
(マタイ5・3-5)(新約聖書翻訳委員会訳)

精神的豊かさや喜びや自己主張、大義といったプラスの属性を持たない者を、祝福している。
続く4項目では、憐れみ深い、心が清い、平和を創り出す、義のゆえに迫害されてきた、という属性を持つものが祝福されている。これらも本来は「プラスの属性を持たない者」として列挙されていたと考えられるのではないか。
エスの存在基盤は非抑圧大衆であり、価値から見放されていた。そこでそうしたあり方を素直に肯定しようとした、ということである。

修身斉家治国平天下を根本とする儒教的思想ではありえない思想である。儒教文化圏サバルタンが語ることはあり得なかった。キリスト教文化圏ではサバルタンの語りは保証されていたということだろうか。そんなことはない。乞食に対する祝福は、直ちに全能の神への崇拝に昇華されてしまい、乞食たちには憐れみ(残飯)が施されるだけになった。