松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

非人間性に向けての「自由」

彼はヨーロッパのヒューマニズムを財産にしてきた「自由」が、すでに久しい以前から、無神性と非人間性に向けての「自由」であり、それは大戦という現実のなかで崩壊したし、崩壊せざるをえなかったと一九四八年の講演で語っている。(同書 p229)

「非人間性に向けての自由」という言葉を聞くとき、わたしたちは何を想うだろうか?

子どもを生み育てない自由
地域社会に関与しない自由
リストカットする自由 自殺する自由
ロリコンの自由 オナニーの自由
引きこもりの自由

といったものが想いうかぶ。このようにリスト化するときわたしたちはすでに、そのような自由を繁茂させてきた現在を否定的に捉え、愛国心(パトリオティスム)と忠孝で支えられた少し窮屈ではあるものの健康で安らぎに満ちた社会への郷愁に囚われている、半ば。

しかしそうした“健康な社会”とみえるものが裏に、アウシュヴィッツ南京大虐殺という絶対的悪を隠していたことを私たちはすでに知っている。一方、アウシュヴィッツの否定から始まったはずのわたしたちの「戦後」も、ガザ回廊という巨大な鳥かごや収容所国家北朝鮮の存在を否定せずその存在を黙認するものである。つまりアウシュヴィッツを他者とすることにわたしたちは失敗した。61年目に私たちはそう確認するしかない。

そうであるとしてもわたしはとりあえず書き続けるしかないのであるが。自由というものに存在の解放につながる〈風〉を感じることが出来なくなっているのだ、私たちは。ビル・ゲイツはリタイアを表明し、ホリエモンと村上某は挫折した。前者だけでなく逮捕という外的要因で挫折したはずの後者も、はいもういいですと自らの企業の継続に未練を示していない。使い切れないほどの金はニヒリズムをもたらすだけだ。わたしたちは自らが呼吸すべき〈自由〉のイメージをはっきりさせることができずに、緩慢な自滅に向かっているのか。