松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「ユダヤ的な歴史の本質」とは?

 現代ユダヤ人国家としてのイスラエル国は、いうまでもなくパレスチナ難民を生み出し、アラブ民族の迫害(大量殺害さえも含む)の現実を突きつけている。そのことに対する政治的な価値判断は、たとえばイスラエル国家の国家主義的な権力行使への批判は当然ありうるだろう。しかし、ユダヤ人が、二十世紀に、あのホロコーストの体験を経て、パレスチナの地に国家の建設を行ったことのうちには、イスラエル民族の特殊性が、いいかえれば聖書的観点からしてあきらかなユダヤ的な歴史の本質がある。その神学的本質を看過するならば、ナチスによるホロコーストイスラエル国家の誕生という、今世紀の出来事の比類なさを、正確に知ることはできないはずである。ユダヤ人あるいは、ユダヤ的な「真理」とは、近代の国民国家をめぐる議論の枠内で論じることはできないものなのである。
 なぜなら、ユダヤ人を、聖書的な使信から見るとき、それは世界史のなかで語られてきたような意味での「民族」では、全くないからである。ユダヤ人は、他の民族とくらべることのできるいかなる民でもない。
富岡幸一郎 同書p201)

 支離滅裂な文章である。ユダヤ人あるいは、ユダヤ的なものは国民国家の枠組みで論じることができないものだと宣言される。であればなぜ国民国家に類似の国家をパレスチナの地に立てなければ成らなかったかの説明が全くない。パレスチナの地にユダヤ人は以前から、他民族と共存して住んでいた。排他主義国家主義を求めたのは、十九世紀末に成立したシオニズムであり、二千年以上前からある旧約聖書的なものが直接要求したわけではない。
ユダヤ人が、二十世紀に、あのホロコーストの体験を経なかればならなかったことのうちには、イスラエル民族の特殊性がある」反ユダヤ主義言説を自分が垂れ流していることにも無自覚なのか。
 この一人の日本人を含む多くの善意のキリスト教徒が「イスラエル国家の誕生」を祝福し続けていることのうちに、イスラエル国家がその暴虐を持続しうる根拠がある。カール・バルトの名を汚す物神化言説を富岡は直ちに撤回すべきであろう。