松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

他の神の否定

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20・2-3)

第一の戒めは、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」と述べている。それは何を意味しているのか。「ほかの神々」とは何を意味しているのか。ルターの説明によれば、次のようなものである。−−そのものに人間が自分の信頼を寄せ、信仰を捧げ、そのものからして人間が、自分が愛するものを自分に与えてくれ、自分がおそれるものから自分を守ってくれるのを期待するところのもののことである。そのものに人間が自分の心を寄せ、執着させているもののことである。金銭、財物、技術、賢さ、権力、友情、栄誉が、異教の偶像や教皇主義の聖者たちと同様に、またとりわけ人間のよき業、人間自身の道徳的な業績が、この意味で、実際に「神々」であることができる。
(バルト)(p134『使徒的人間』富岡幸一郎 isbn:4062095629

1930年代始め、ナチスはアーリア条項(ユダヤ人排除政策)の全教会への導入を図った。カール・バルトたちはバルメン宣言をなし、それに対抗しようとした。しかしバルトはナチ国家により停職処分を受けることになる。
バルトは裁判所で意義申し立てを行う。
まず彼は、『ソクラテスの弁明』の一節を引用する。

私は、アテナイ人諸君よ、君たちに対して切実な愛情をいだいている。しかし、わたしがその命に従うのは、むしろ神にであって諸君にではないだろう。

そしてさらに言う。

 国家は教会を承認することによって、国家としての自己に措定された限界を、国家自身のために肯定するのです。そして、国家公務員としての神学教授は、この限界を守るために国家自身によって任命された見張り番であり、またまさに、現在広く行われており、あの検事によって布告されたような国家理論によるあの限界の突破に対する見張り番なのです。(バルト)(同書p177)

 このブログでも以前から取り上げてきた学校における日の丸君が代の強制と全く同様の事態である(と思われる。)
日の丸君が代の強制に対し、私自身の信仰の自由を疎外するから反対だ、と理論構成できないものかと以前から考えていた。「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」という戒に基づく反対ということはできそうだ。

でさきほど、
イスラエル国家の人が、ハマスの首班(ハニヤ氏?)を暗殺するぞとか、アンダーグランウンドなやくざならともかくおよそ国家を代表する人物が口にすることができるセリフとも思えないことを言っているのが、日本でも報道されていた。
ユダヤイスラエルという記号が国家になり神になることが、白昼殺人を口にすることを恥としないアウシュヴィッツ的感受性を生んでいることを*1はっきり確認しないといけない。