松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

国家理念の基点

したがって十世紀以降律令国家にかわって形成されてゆくあらたな国家においては、ほかならぬ国家理念の観念的な基点がどこにあるのかがはっきりしないことになる。現実には中世的な国家体制がつくられてゆきながら、それを観念的に意味づける国家理念の基点があいまいになり、そのため「現神」が国家に圧倒的な力で君臨するという律令国家の国家理念が見失われたことだけが人々の意識にのぼるようになる。それは現実と観念との間のおおきなズレであり、空隙であった。
(p82桜井好朗『神々の変貌』isbn:4480085467

十世紀(平将門の乱のころ)古代律令国家の国家理念は失われる。国家の見かけは続いてたわけだから、上記は後生の歴史家が断言しているだけであり当時の人が上記の喪失にどれだけ自覚的であったかはよく分からない。
「現実には21世紀的な国家体制がつくられてゆきながら、それを観念的に意味づける国家理念の基点があいまいになり、そのため「平和と民主主義」が国家に圧倒的な力で君臨するという戦後国家の国家理念が見失われたことだけが人々の意識にのぼるようになる。」と言い変えてみると現在にもあてはまるのか?と思ったので引用してみた。
 とっくに有効期限が切れたとしか思えない教育勅語的なものを、石原慎太郎をはじめとする明敏なはずのこの国の国家エリートが復権させようとしているのはどうしてなのか?フランス革命以前から営々と積み重ねられてきた民主主義の理念はもはや日本の大衆には魅力を失っているのか。新しい時代を観念的に意味づける国家理念の基点があいまいになったまま、何百年も過ぎるかもしれないという未来は灰色です。おそらく国家ではなくそれより広いエリアが問題になるのでしょうが。