死者たちは歩み始める。
でもって、〈人の間〉で流通すべき倫理を超えるしかないことを教えるのは「死者」の存在である。わたしはまことに信心のない人間だが年に1,2度父の墓の前で手を合わせる。ささいなことではあるが、「われわれはすでに死者と関わりを持って生きている」という事実がそこにある、と指摘されればそうかもしれない。
靖国の死者たちはどうか?永遠に日本と日本主義者たちを呪っているだろうか。日本を呪うことができないのでその分余計に日本主義者たちを呪っているだろう。
ところがそうではないと強弁するために靖国神社は、犠牲というレトリックを使う。彼らは日本の為に犠牲になったしたがって国民は彼らに感謝する、と。神州不滅を唱えた靖国神社に戦後も生き延びる権利があったかのような論理である。靖国は自らの神州不滅というスローガンの責任を取り敗戦において自裁してみせるべきだったのに。
ところで、末木は靖国から逆に学ぼうとする。
戦死者という限定はあっても、まったく普通の死者を祀っているという点で、靖国神社は葬式仏教の果たしている役割を取り込んだものということができる。(p213)
平田派国学者の挫折した夢「神葬祭」をうまいこと実現してしまったもの、と見る。
仏教が戒名に金銭で差別をつけて平気でいるのに対して、神道ではみな平等であり、靖国神社においても、一兵卒も将軍もまったく同じように祀られている。(p214)
差別する仏教者であれば靖国批判に説得力はない。
靖国神社は、官軍側や自国の戦死者だけを祀っており、それは偏っていて平等ではないという意見もしばしば聞かれる。しかし、境内には鎮魂社という末社があり、1965年創建という新しいものではあるが、世界中の戦争の犠牲者のすべての霊を祀っている。この鎮魂社の役割を重視していけば、靖国神社の性格そのものも変わる可能性もある。(p214)
「世界中の戦争の犠牲者のすべての霊」など祀る必要はないように思える。あくまで大東亜戦争で向き合って結果として死に至らしめた膨大な死者たちに肉薄し祀る意志があるのかないのか、問いつめるべきだろう。
2005年の6月12日に、台湾原住民族「高砂義勇隊」の遺族、訪日代表団が靖国神社へ赴き、祖先の霊を奪い返すための儀式を執り行おうとした。*1しかしどういうわけか警察権力が介入し、彼らの神社への訪問は阻止された。台湾原住民からの問いかけに応えるだけの霊的な質を神社側がまったく持ち合わせていなかったことが明らかになった。
靖国神社の性格は変わるのか。左翼は靖国を頭から否認することにより逆に靖国を育ててしまったのか。靖国の死者たちに肉薄する事により、彼らの〈恨〉を立ち上がらせることは可能なはずではないのか。
靖国*2の死者たちが誰にも遠慮することなく立ち上がり、生者に手助けし、ともに歩めるようになれば、状況は大きく変わるはずである。
(p217同書、野原が一部改変)
*1:現代思想・特集靖国問題p76以下参照isbn:4791711394
*2:原文、広島