松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

新年と他者を〈歓迎〉する

 この間、松下のパンフを電子テキスト化して、hatenaに転載するという作業をしようと考えていました。
 しかし転載という行為においてその都度作り出すべき情況(磁場)への働きかけ、に自覚的であれ! とする松下の命令にどう答えていくべきかの戸惑いから抜け出せずにいました。そこで当初予定していた概念集序文の掲載も3で中断していました。
 この間の模索の中で、少なくとも次の二つの〈現在〉の事件との接点を拡大する方向で、21世紀にとって松下とは何かを問うていくことができるのではないかと考えています。

○ ひとつは〈被拘束空間〉テーマ。
12月8日に拘束された戸田ひさよしさんはじめ

しかしこの一年、逮捕だ起訴だ削除だ損賠だといった事件への抗議ばかり書いているような気がします。いったい3年後、5年後の世界はどうなっているのでしょう。今行動しなければ、3年後では手遅れかもしれない。あるいはすでに取り返しのつかないところまできているのでしょうか?
http://hatahata.mods.jp/modules/wordpress/index.php?p=263

日本では、活動家への刑事弾圧があまねく起こってきているようです。
一方左翼の方が軽視しがちな、収容所国家=北朝鮮における〈被拘束〉問題、および北朝鮮難民問題活動家の(中国政府による)拘留といった問題も合わせて考察すべきです。
 このような問題を考察するとき、「抑圧された者を救済する」といったパラダイムでは本質を取り逃す。活動家は活動を止めれば抑圧を逃れることができるから。
 一般に何かを為そうとすることは自己の位置を強化することであり、それはなによりも自己のあり方を問わねばならぬという松下の命令に反することになる。という逆説を指摘することができる。
 被拘束者を議論の場に登場させなければならない。それがどうしても不可能であればわたしが彼の代わりに語るしかない。ここで相手の立場になってみるといった発想がでてくる。それを極限的に追求したビジョンが〈仮装〉である。〈存在の根拠を交換することは可能か?〉という問い*1、であるわけです。
 話が広がりましたが、要は元旦の現在もなお獄中に在る戸田氏というある人物を〈契機〉とすることにより、概念集をいまに引き寄せることができるのではないか?
 
○ もう一つは〈テロリストを作るのは誰か?〉という問いです。
これは、立川反戦ビラ問題について、「おおやにき」さん、mojimojiさん、黒猫房主さんなどを含む論争が起こっていてそれに野原も参加すべき立場にいるみたいなのです。下記にちょっと引用した。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051229#p1
「その他者が扉をぶち割って侵入して家族を一寸刻み五分試しにしながら「これが私の政治的思想の表現なのだうはははは」と高笑いしていても」といった醜悪な〈テロリスト〉のイメージ。被告がやったことはただ平和的なビラ撒きであったのに関わらず、刑法や処罰の必要性を語るために、醜悪なテロリストのイメージを必要とするのは論理的敗北である。
 2005年は安倍晋三による慰安婦問題の圧殺という思想攻撃が成功した年であった。他者の持っているマイナスイメージを千倍にも万倍にも拡大することにより、他者を自己とは切断された他者つまりテロリストの味方と了解させる。〈テロとの戦い〉という粗雑な二元論への還元。新進気鋭の学者である(ことは間違いない)「おおや」氏にしてこのような下品なレトリックに訴える。
 お前だって家に鍵は掛けるだろうだったら・・・ という古くからあるレトリック。しかしながら現在、他者とはたちまちにしてテロリストに近い物であるのだ。ここまで押し込まれてしまったがゆえにわたしたちは、松下昇を思い出さざるを得ない。敵である機動隊員たちという形で、あるいは活動する身心を痛めつけ縮こまらせるための拘置所などという形で、わたしたちを訪れる他者を〈歓迎する〉。文字に書くのは簡単なこの〈歓迎〉を、とにもかくにも生きついだ松下の数十年。わたしたちは彼に学ぶしかないのだ。
○ もうひとつ下記の「サンドラ母子を支える会」テーマとしては、
〈国境〉において国家を考える、という不可避性 であろうか。

*1:概念集1p18