松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

無限な非自我

フィヒテによれば、自我は、定立作用のうちに存する無限な活動性を自らの本質と見なす。このことは次のように起こる。即ち自我(das Ich)はみずから(A)を定立し、このみずからに対して、構想力のなかに、ひとつの非−自我(B)を反定立する。

理性がその中間に入ってきて……、そして構想力を、規定されたA(主観)のうちへBを受け入れるものとして、規定する。しかしいま、規定されたものとして定立されたAは、もう一度、ひとつの無限なBによって極限されねばならない。このBに対して、構想力は右に述べたのと同じように振る舞う。
*1

 ベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』isbn:4480086293 という本を買うとp40に上のような文があった。この本はドイツ・ロマン主義といってもマイナーなSchlegelシュレーゲル(弟)*2の理論を主題にした本だ。

「概念の集合を少しずつ文字に変換していく作業」において、対象にあふれかえり律動するエロス的な横溢を感受する松下昇*3に少しづつ近づきたいのだ。松下はハイネとブレヒトの論文を書く研究者として出発したが大学紛争(闘争)に巻き込まれ(道を誤った?)ひと。あのごつごつして巨大なドイツ観念論を詩人からみたその伝統を、ハイネなどを通してしっかり受け継いでいるようにも思える。*4いずれにしてもわたしには道が遠すぎてどうしようもない感じがするがまあできるまでやってみよう。


 というかわたしたちはいつどんなときも「Ich bin」しているのであって、それに驚くことができる。
 それはそうかもしれないが、それがどうした。*5

ところで、浅井健二郎氏によって丁寧に編集されたこの本の核心は、浅井氏によれば、次だ。

この理論が最終的に明らかにしようとしているのは、<主観−客観>構造を廃した(近代的<自我>構造も廃した)「絶対的形式」の可能性である。*6

これは松下昇が「大衆団交」に秘められているとした〈途方もない無限性〉にヒントを与えるものであるだろう。

大衆団交を参加している全構成員のかかえている問題と同じ数の未知数を持つ方程式の解を求める動きとして再把握するならば、現在の私たちが置かれている困難を突破する道の少なくとも一つを示唆しうる。
(p13松下昇『概念集・2』)

ベンヤミンの探求の出発点として、〈哲学の直感にとっての絶対的な経験しての言語〉と〈真なる経験としての宗教〉の回復、の二つがあげられる(同書解説p452)。おそらく“松下にとって〈 〉とは何か?”を考えるに際し後者はヒントとなるだろう。

*1:フィヒテ『全知識学の基礎』1794年

*2:フリードリヒ・シュレーゲル(Karl Wilhelm Friedrich von Schlegel, 1772年3月10日-1829年1月11日)はドイツ初期ロマン派の思想家。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB

*3:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051129#p1

*4:ヨーロッパ、特にドイツでは文学と哲学の距離は、極めて近い。cf同書解説p450 ひとつである真理に接近する二つの方法という感じかな。でわたしたちの国学においても事情は同じである。

*5:ただのナルシズムやん?

*6:cf同書解説p452