松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

天皇に絶対随順する道

姜信子さんの下記の文章はナショナリズムを少し深く考えようとするときに必須の幾つかの論点を、的確に浮かびあがらせており優れた文章だと思う。
http://www.asahi-net.or.jp/~fw7s-kn/2004_08.html

日中戦争が始まった昭和12年に文部省が発行した「国体の本義」をひもとけば、日本という国のあり方、その臣民の徳目を語るこんな言葉。

「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立ってをり、我等の祖先及び我らは、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉體することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある」。

「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(みいつ)に生き、国民としての真生命を発揚する所以である」(「国体の本義」第一 大日本国体 三.臣節より:昭和12年 文部省発行)。

まことに支那事変こそは、我が肇国の理想を東亜に布き、進んでこれを四海に普くせんとする聖業であり、一億国民の責務は実に尋常一様のものではない」。(「臣民の道」文部省編纂 昭和16年 )

こういった文章に対し姜信子さんは言う。

で、私はといえば、聖なる使命を語り、大義を語り、栄光を語り、絶対的な存在(たとえばかつての天皇、あるいは神)のもとでの個の全体への一体化を語る者たちの、その誇り高い「語り口」、その「語り口」の底にある「他者」と「私」を分かつあまりに深い自己愛とでも言うべきものへの違和感をどうしてもぬぐうことができない。

わたしもほぼ同意見だ。
ただまあ、「絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。」となると自己というものは全否定しなければならないとされ、窮極のマゾヒズムになっている。朱子学においても我は否定されるべきものだがそれは哲学的存在論としてであり、日常生活の諸ベクトルを否定したものではない。教育勅語は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」といった諸活動を積極的に認めているのであって全く違う。
しかしながら少なくとも昭和12年以降、教育勅語の名に於いて、天皇への絶対随順が説かれていた。そこに矛盾があるという声は上がらなかった。
「わが生命と活動の源としての天皇」というものと、「天皇に絶対随順する道」との間には、わずかだが決定的な差異があると私は思うのだが。
 ところで21世紀の教育勅語愛好家はだいたい「天皇に絶対随順する道」を愛好しようとしているようでもある。悲惨な脳髄だと思う。
(姜信子さんの文章は後半が良いので読んでください。)