松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

国家のために死んだ・・・

国家のために死んだ(生を中断させた)人を弔わないのはおかしい。

という論理を批判するのは難しい。「ために」という言葉のニュアンスの問題もある。餓死者だって、「国家のために」死んだわけだが、この場合の「ために」は、国家が糧食補給という義務を果たさなかったから、国家の加害行為によって、というニュアンスになる。普通は、国家からの命令という契機はあったものの「国家のために」「ふるさとのために」という思いを以て、というその人本人の自発性がそこにあった、という意味で使われるだろう。
わたしの言う狭義の被害者(餓死者など)については、戦うという能動性を国家の不手際によって奪われたわけですから、「国家のために」という国家とのシンクロからも隔たったなかで死んでいったことになります。敵に一発の弾も撃てずにただ蛆に食われるためだけにこんなところで死んでいくとは、という自嘲とともに死んでいった、のでしょう。
であればそのような死者に対し国家が為さなければならないことは謝罪であり、君の死は無駄ではなかったという顕彰などではない、ことははっきりしています。この点を明確化できなかった日本は、普通の国家になりそこない、窮極のマゾヒズム国家か、非力な絶対平和主義かの二者択一しかないわけですね。