松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

いつどんなときも「私は有罪」ではない。

 私にとって第一の関心事は、「私においてどのような表現が可能なのか?」「どのような私が可能なのか?」にあります。
「私は有罪だ。」という表現は成立可能でしょうか。不可能だと思います。有罪とは、それを言表することにより致命的なダメージを私が受けるという意味である。したがって何らかの裁判装置に私が受動的に掛けられるなら、「あなたは有罪だ」という言表は装置から発せられるであろう。もちろんわたしの内にも良心がある。良心は反省し認罪することができる。だが実行した私も、認罪した私も同じ私に過ぎない。前者ではなく後者が優越すべきだとする根拠は何処にあるだろう。戦争の時代に戦争に加担し、反省の時代に反省に加担する。それでは時流に合わせているだけですね。時流としてはまさに現在、反省への反動が押し寄せている。
わたしというものが“どこまでも述語となって主語とならない時間面的自己限定にほかならない”*1なら、反省はどのように可能なのか。
 そもそもわたしがどんな罪を犯したというのか。わたしはどんな罪をも犯しはしない。仮にレイプしたとしてその対象がその直後に消滅したとしたなら、犯罪は存在したとは言えない。殺人の場合はまさにそうだろう。犯罪は発生した瞬間に消滅する。あなたが神ではないから犯罪の瞬間を再現することなどできない。すなわちわたしの犯罪などどこにも存在しないのだ。
「語りえないものの秘密を漏洩すること、それがおそらくは哲学の使命にほかならない」(レヴィナス)という非在の回路を通じてしか、「わたしの罪」は現れない。悪人はいつでも安心して眠っている。