松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

心だに誠の道にかなひなば

心だに誠の道にかなひなば
     祈らずとても神やまもらん

という歌があります。近世(あるいはそれ以前から)人々の間で広く受け入れられた「道歌」だそうです。北野天神、菅原道真の作と信じられた。
「心」「誠」(これはしばしば「正直」とおきかえられる)「神」の三者の関係を端的に表現した道歌*1 といわれています。
民衆において祈るとは、なんらかの功徳を祈ることであったでしょう。そして寺社へ行ったりましてや僧などに来て貰うことなど望めない庶民は(ちゃんと)祈ることもできないと考えられた。神との外面的繋がりがないところでもなお、「誠」「正直」であることによって、人間の「心」と「神」は通じ合う。神に通じる(わたし一個の)「こころ」を発見していったという点ではキリスト教プロテスタンティズム)に通じる所さえあると評価できるかもしれない。
 わたしは昨日始めて知ったのですが、なかなか善い歌ではないでしょうか。
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。・教育基本法1条」とかいってもそれだけではなんだかそらぞらしい。

「誠の道」と仮に名付ける普遍的価値があるとする。そしてわたし一個がそれを受肉することにより、ある「幸せ」の境地に辿り着けるのだ、とする信念。

この信念を肯定するかどうかですが、アナキストでありながら一応はイエスと答えたいと思います。もちろん、「祈らない」こと=君が代を唱わないこと=外面の秩序に恭順することは悪である。 という論理にしたがってのことです。

*1:p305『近世神道国学』前田学 isbn:483151005X