松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

愛国と正義

3/21のコメント欄より

# index_home 『swan_slabさん>「公共の福祉に完全に合致した生き方の強制」というと、個人的には少し違和感があるかもしれません。「公共の福祉」=「愛国」ですか?と。(基本的なお考えに反対するものではありません)』 (2005/03/23 14:31)

# swan_slab 『index_homeさん今日は
話が抽象的なのでイメージを喚起するためになるべく例をあげながら書きます。
イメージとしては「公益の増進」圧力=愛国です。

>公共の福祉
これは人権一般についての制約原理として通説である【一元的内在制約説】を前提とすると完全に違和感を感じると思います。また、「人に厳しく自分に甘い」ダブルスタンダードに対する皮肉を込めた言い方でした。そのような強制をするひとは概して自分の利益が公益のなのもとに侵害されそうになると大騒ぎする、という意味を少し込めています。
さて一元的内在制約説は、人権相互の衝突局面において調整原理として公共の福祉を想定します。とするとその強制はむしろ法律を制定してまで行うべきではないか(例えば刑法など)という疑問が生じるはずです。

これはよそのブログ(例えばdeadletterさん)の「ヘイトスピーチは存在するかhttp: //deadletter.hmc5.com/blog/archives/000098.html」の議論にも通低するのですが、内在的制約説の論理的前提にあらゆることをなしうる一般的自由があるとすれば、それはやはり不自然であろうと私は思っています。自然権(しかもロックのような自然権)として殺人の自由が想定されていたとはとても考えにくいからです。例えば殺人が否定されるのは人権相互の内在的な調整原理としてではないでしょう。

私がいわんとする公共の福祉とは人権相互の衝突を予定しなくとも想定される社会公共の利益です。例えば空港や基地、ダム、原発の建設であったり、最近話題のものでいえば放送法上の公共性といったものです。放送法上の公共性を一元的内在的制約説で説明できるひとがいれば手を挙げてほしい。恐らくムリです。調べると、そもそも内在、外在といったターム自体、その履歴をたどれば、戦前の憲法理念の一元的外在的制約説への批判からスタートしていることがわかります。私は例えば表現の自由なら、手続的正義そのものを社会公共の利益として保護する必要から、それを公共の福祉の名の下に、ある種の表現や自由は制限を受けざるをえないと考えています。昨年プライバシーの侵害を明確に認定されながら差止めができなかった理由も内在的制約説からは説明が難しい。

そして、無理やり人権相互の衝突をイメージするよりも、社会公共の利益(例えば公務員の労働権の制限は、議会制民主主義の要請)という独立の原理的制限があると考えたほうがより生活実感に近いのではないでしょうか。もちろんそれだけで公共の福祉を説明するものではありませんが。

しかし、政治の領域によって実定法化・執行され、またはされようとする個々の実質的正義(例えば景観条例・未成年者の選挙活動の制限などパターナリズムミーガン法的立法、道路交通法の厳罰化、特定の予算・助成金の増額、ダム建設)などを想起すれば、そのうちいくつかは自分の生活上の不安に答え、利益に合致するものでしょう。これらは単純化すれば多数派の利益にこたえるものです。
私のいう「公共の福祉」はそのときどきのマジョリティの利益が含まれるという見方なんです(大型建設公共事業はその典型)。もし内在的制約でダム空港基地建設(究極的には戦争)のベネフィットを押し通せば、内在的制約説は人権侵害を隠蔽する機能を果たすに過ぎなくなる危険性をはらみます。

それでも「公共の福祉に合致した生き方の強制」に違和感を感じたとすれば、「多数派の決定に絶対従えという圧力」でもかまいません。問題にしているのは、マイノリティに対する想像力です。』 (2005/03/23 22:42)

# swan_slab 『>日本思想史において、求心的なものを求めると天皇主義しかないのか
>日本は変だと思う。戦後の日本はこの「日本人がアジア人である」という事実を隠蔽、忘却していると言いうるのであって、非常に変だと思う。
おおやさん>野原さん

もし、日本が政治的・文化的に多元的社会を目指すのであれば、求心的なものを求める必要はないし、権力バランスに細心の注意を払っていればいい楽な社会になると思います。例えば、施工会社が環境影響調査も請け負うとか、経営者ばかりが経営を監督し外部取締役の権限が弱いといったこともなくなるかもしれません。

左翼思想はなにかと同化を迫るものでしたから、みんな同じ方向を向いている限り盛り上がったんでしょう。学生であれば運動(スポーツじゃなくて)のあとフォークにつどうということができた。でも、高度経済成長のおわりごろから社会は流動性を増し、価値観も多様化した。読んでいる本もテレビも趣味もみんなばらばらになってきた。子供たちは学校以外に居心地のいい居場所をみつけるようになりあえて学校に反抗しなくとも済むようになった(尾崎豊かはいまや嘲笑すらされている/swan_slab050104参照)。


日本がアジア人であることを忘却するようになったとすればなぜだろう。
う〜ん。

お互いにヘンな奴らと言い合うこと自体は、むしろ健全な方向に近づいているのかもしれません。

おおやさんのあれは論争が長すぎてついていけませんでした。
ただ田島先生の突っ込みがもっとも的を得た批判と感じました。』 (2005/03/23 23:15)

# index_home 『swan_slabさん>お考えはよくわかりました。丁寧にご説明いただきありがとうございます。いまさらですが「愛国心」「公共の福祉」についての自分のコメントに関する簡単な補足と、ちょっとだけ独言めいたものも書いております。http: //d.hatena.ne.jp/index_home/20050323#p4』 (2005/03/24 00:10)

# swan_slab 『>私達の認識や判断を左右する「実質的正義」とそれに結びついた「モラル」のあり方や性質については、ジョージ・レイコフ「比喩によるモラルと政治」が参考になると思います、この本はアメリカを例に大きく二つに分かれる「モラル」(この本では「保守」と「リベラル」)が人々認識や判断を左右し、互いに無理解か論じています。もちろんどちらかのモラルが正しいとは決して断言できないと私は思います。>

レイコフの議論はちょっとよくわからないのですが、

近代法治主義または法の支配のシステムを前提として議論していきますと、恐らく
政治の領域における「実質的正義」≒モラル(例えば携帯電話のマナーとか価値観)等と
法の領域における実質的正義=自由、平等、民主主義
の二つが観念できるのではないかと思います。
法的安定性を重視する目的から、後者の正義は法=seinの領域に埋め込むのが望ましいということがいえると思います。それらの正義は誰にとっても重要なものであるから時の多数派によってひっくり返されるべきではないからです。
仮に愛国心なる観念がありうるとしても、近代国家を成り立たせるために根本的に重要な普遍的正義なのかどうか。そんなふうに考えてしまいますね。』 (2005/03/24 00:28)