松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

闘争

「詩というものが無数の表現方法をとるように、闘争にも無数の方法があると思いますから、*1」わたしたちは「闘争」という言葉につまずく。わたしは闘争主体に成ることができるのか?闘争主体として生きていくとはどういうことだろうか?闘争主体であることと「まともな就職」は背反する。闘争主体であることはこの社会がその上で成立しているルールに敵対することではないのか?わたしたちは資本主義なしに生きられない。わたしたちは国家無しに生きられない。であれば少なくとも、資本主義を否定する論理、国家を否定する論理を口にすることは思想的に潔い態度とは言えない。まず仙人になってから言うべきだ。このような気分は20年ほど前から社会を覆っている。そしてついに、自民党柏村武昭参院議員(広島選挙区)が、4/26日「そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」と、反体制的発言をする人自体を非国民としてバッシングする事態に至っています。闘争主体であることは可能なのか?
 まあ落ち着いて考えてみよう。最後の柏村発言について言うと、これは間違っている。現在「自衛隊撤退」の方が国益にかなう可能性は充分ある。その可能性に対し、「撤退」派を非国民と呼ぶことで日本は戦争から引き返せなくなって悲惨な目にあった。柏村氏は国会議員として日本の歴史に責任を持つ態度から逸脱している。次ぎに、国家や資本主義を否定する言説はどうか。国益を土台にする言説とは土俵が違う。土俵が違うだけのことで、前者が禁じられなければならないということではない。それに、国家や資本主義への否定といっても、わたしたちは「否定」を提起しえたことは一度もない。わたしたちは大学を占拠した。占拠の根拠に「否定」即ち革命があったわけではない。それは錯誤であり、そう信じた者たちの一部は連合赤軍事件で自滅した。占拠は不法、不当なものとされたが、それは情況の推移に応じてそうなっただけのことで最初からそうきまっていたわけではない。学生は大学に存在する。存在することはSEXすることや出産することでもあるが、通常それは授業の場としての大学の範疇からはずれるものとして指弾される。しかし存在することはつねに逸脱であるのだ。わたしたちはロボットではない。したがって忙しく仕事しながらも仕事以外のことをしょっちゅう考えていたりする。そうであることを禁圧することは、とりあえず雇用者の利益になると考えられる。しかしそれを完全に禁圧することなどできないし、そう考えられるだけのことでそうと決まった訳のものでもない。
 つまり、難しく考えなければ「わたしは闘争主体になれるのか?」というのは、「わたしはいつの日かSEXパートナーを獲得できるのか?」というもてない君の嘆きとほとんど同じ物にすぎない。後者の問いだって「わたしは話も上手くないし、収入も少ないし、根性もない」云々と列挙していけば、答えは限りなくゼロに近づく。うーん、ところで「闘争」って何だ?

*1:松下昇「わたしの自主講座運動」より http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040222#p2