松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

主人の語り/奴隷の語り

今日は朝ちょっと家事をした以外ずっと暇でパソコンの前でいろんな本をめくったりしていたのだが、いまいち気分が乗らず一行も書けなかった。
はてなで、http://d.hatena.ne.jp/entre/  「遅ればせの革命」というサイトを発見、面白かったのでコメントしてみた。
# noharra 『!!全国のまつろわぬ日記書きよ!!、と大時代に呼び掛けられ、ふ、不意を突かれて応答してしまおう。例えば「テロ」といった一つ一つの言葉の使用法が、権力行使に必須の言説の配置をいま作っていること、だからそのことに自覚的に一つ一つの決まり文句の使用法をパロディ化することだけでも、大きな抵抗になりうる可能性を持つ。そのように感じ、同感します。“大丈夫、君が心配しなくても、自衛隊は<テロ>では死なない。”自衛隊の先駆けだからこそ殺された二人に対し、テロの犠牲という言葉を使って疑わないマスコミに疑問を感じていたので、entreさんに賛成します。野原燐』
E・サイードは、世界というものはつねに主人の語り(正史)によって作られているとし、それに対し対抗的物語を対置する。(master narrative/counter narrative)*1 そうだったのか、うん。イラクパレスチナがどういう現実としてわたしたちに認識されているかというと、当事者アラブ人ではなく、欧米の帝国主義的視点からである。例えば「自爆テロ」。占領地における民族解放闘争といった文脈であれば中立的なのに、ことさらに宗教性が強調されたり、自爆という奇形性があげつらわれる。そして平和な市民が殺傷されたことの悲劇性が強調される。<テロリストではない>イスラエル自衛隊が<テロリスト捜索のため>パレスチナ人の家屋を破壊しテロリストではないパレスチナ人を殺してもそれは報道されない。
誰がテロリストであるかを決める権限は帝国主義者の側にある。だが、そう断言してしまったら、歴史や記憶の圧殺を拒否する対抗的物語が正史に一矢を報いる可能性、すらないのではという絶望におちいる。この問題について、希望を与えるのは皮肉にもイスラエルシオニストたちの言説=宣伝戦略である。彼らは武力行使とともに、言説=宣伝戦略を大々的に展開することにより現在のバランスを(1350億ドルのアメリカの支援)手に入れている。現在の言説の付置は彼らの努力によって歪められた結果である。アプリオリ帝国主義者の側とサバルタンの側が存在する訳ではないのだ。即ち、対抗的物語の側にもチャンスはある。

*1:cf現代思想イード特集p88