松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

213 今日も混沌未分なり 野原燐 2003/07/26 18:05


日本書紀冒頭にはこうある。
「 古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)
分(わか)れざりしとき、
渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟(ほのか)にして
牙(め)を含(ふふ)めり。」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html


林羅山はこう書いている。『神道伝授』という本で。
「混沌は一気のまろきを云うなり。天地開けず陰陽未だ分かれざる時、コントンと
マンマロにして鶏子のごとし。その中に神霊の理 自ずから在りて未だ現れず。
その分かれ開くるに及んで天地の間に万物生ず。」
「また人の心にたとゆれば、まどかなる理の中に、動と静とを合わせて
念りょ未だ芽(きざさ)ざるは、コントンなり。既に動発して種々の思うこと
多く出来るは、天地開け万物生ずるに似たり。神は未分の内より備て、開闢の後に
あらわる故に、始まりもなく終わりもなし。人心も同理なり。
静にして虚なれば、今日も混沌未分なり。」
(p26 『近世神道論・前期国学』日本思想体系)


<太極にして無極>を宇宙の根源とする朱子の思想の焼き直しともいえるが、
混沌を直接肯定するのは儒教からは外れている(のではないか)。
今ここに在るわたしでも、<静にして虚なれば>、宇宙を開く混沌未分
という原理がそのうちにあるのだ、というのはちょっと良いと思った。
<静><敬><未発の中>などというのは宋学においていわば士大夫が
聖人になろうとする方法にすぎないともいえる。(そこにおいて、宇宙原理たる
理と一体化していかなければいけないのだが。)それをむりやり、
日本神話の原初の混沌に結びつけたのは大変な力技だと思える。


「マンマロニシテ」なんていう純日本語が出てくるところもおかしい。


「民は神の主なり。民とは人間のことなり。人有りてこそ神をあがむれ、
もし人なくば誰か神をあがむる。然からば民を治むるは神をうやまう本なり。
神徳によれば人も運命を増すべし。」p14
もう一つ引用してみた。儒者にとってはうまく民を治めるのが目標なのは当然
なのだが、神が出てくるのでなかなかおかしい。


というわけで、名前だけは高校教科書にしっかりでてくるが仁斎などと違い
著作は一冊も見たことがない林羅山先生の文章を引用してみました。


                     野原燐
岩波の日本思想体系は註は充実しているが現代語訳がついてないので、
わたしには難しいです。前から探していた『山崎闇斎学派』というのを見つけた
、翌日十冊ほどのこのシリーズを1,200円で店頭セールしていた。
キリシタン書・排耶書』というのを選び、あともう一冊ぐらい買っとこうか
とこの本を選びました。スピヴァックアレントであればマイナーとはいっても
興味を持つ人はいるわけですが、日本儒教になど誰も関心を示しさないでしょうね。
わたしも積読だけになってしまっては困る、そこでここで一人でむりやり書いて
みているわけです。


さて、羅山の文には「摩多羅神」なんてのもでてきた。なんだかいやらしそうな
神だなとグーグル検索してみたらいくつか記事が出てきた。
摩多羅堂という専門のサイトがあり正体不明のこの神について丁寧に紹介していた。
http://mataradou.hp.infoseek.co.jp/s1.html