松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

159 天地初発之時、於高天原成神名 野原燐 2003/02/11 23:03


さて、今日は建国記念日だったにちがいありません。
建国記念日とはなんぞや。戦前天皇制的なものであり、これからの時代を
切り開いていけるものではないように思います。

天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神


古事記の冒頭の一行はこうなっているということだ。
子安宣邦氏の『方法としての江戸』p260の“「やまとことば」の成立”
という章にそうあった。
これはどう見ても漢文である。ただ正調の漢文ではなく極めて和臭の強い
漢文ということだろう。今風に言えば、クレオールな(ピジンな)漢文で
ある。ドルゥーズふうに言えば、ハイブリッドな異種混交性が
わが日本の起源にはある。


ところがそのことは隠蔽される。
「天地初めて発(おこ)りし時、高天の原に成りませる神の名は、」
といった読み下し文があたかも原文であるかのように、思われている
(のではないか)。
最初の天地にしてもこれは天地(てんち)ではない、あめつちだ、
と執拗に主張したのが宣長である。
宣長こそが古事記を日本の聖典にしたのであり、その構築は現在まで
揺らいでいないのだ。
子安氏のその論文の結論は、「民族の言語的自己同一性の理念」というのは
神話でしかない、というものです。
そのとおりですね。
ところで日本の数百万、建国記念日のお好きな方も、
天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神
なんていう起源は忘れておられるのでは。なにしろすぐに
「独神と成りまして、身を隠」された方だから。
四人目には「うましあしかびひこぢの神」というのがでてくる。
檜垣立哉さんの『ドゥルーズ』p100には「たまほこりかび」
というのがでてくるが、そっくりですね。
「さまざまなかたちをとるタマホコリカビの、あるべき個体などは
どこにもない。変幻自在に姿を変え、自己の単位すら危うく生きる
タマホコリカビは、しかしそれぞれが独自な個体、特異な個体である。
純粋で本物であるタマホコリカビを追求することなど、誤りでしか
ありえない。それは、潜在的に多様なタマホコリカビの、生の力を
肯定しない転倒である。」
ところで天之御中主神とは、闇斎によれば儒教の基礎概念である「中」に
ほかならなかったのでした。中もあり黴もあり古事記もなかなか面白い。
だけど、建国記念日なんて面白くなかろう。


                 野原燐
(今日は知人の絵を見に行った。最近アフリカ音楽にインスパイアされた
とのことで、画風が変わっていた。)