松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

真実や静止状態それ自体が解放的である訳ではない。

 アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『帝国』5600円がベストセラーに、
なりつつあるらしい。うちの近くの三つの大きな本屋では売り切れのようで、より大きな都市に行ったらあったので思わず買ってしまった。
やっと200頁ほど読んだが、もちろん資本論に比肩するほどの本ではない。
だけど、20年前のベストセラー『構造と力』に比べると5倍ぐらい役に立つ、
かどうかは分からないが、思わずそう言いたくなるような図太い力がある。
『構造と力』は結局のところオタクのための本でしかなく、『存在論的、郵便的』なんか
恥ずかしいほどそうなのに比べて。


 分かりやすい。例えば、貧者、貧乏人といったことばは誰にでも分かる。
「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」なのである、貧者は。
とこの本は語る。p205
つまり、「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」というフレーズは
、一部のインテリ、ポストモダン業界のジャルゴンにすぎない。だけど、
貧者、貧乏人という言葉はそうじゃない。もう一つ「プロレタリアート」という言葉がある。
これは庶民の言葉と特殊インテリの言葉のあいだ、普通の(イデオロギー)用語
である。このように、この本は言葉の生きるいくつかの地層を勇敢に横断し、
言葉と思想を開いていこうとしている。


次の例。 ポストモダニズムって「支配的な語りへの攻撃と、真実に対する批判」
でないこともないらしい。でもそれってどういうことだろう。


「たとえば、エルサルバドル内戦の終結時に結成された真実究明委員会の使命や、
あるいはラテンアメリカ南アフリカで一独裁以後や全体主義体制以後に確立された
同様の制度の使命を考えてみよう。国家によるテロルや瞞着の文脈においては、
真実という概念を第一に考えしっかりと手離さないことは、強力かつ必然的な抵抗
の形式でありうるのだ。近い過去の真実を確定し公にすることーー特定の行為
について国家の公務員たちに責任を帰し、場合によっては懲罰を課すことーーは、
ここではどんな民主的な未来にとっても不可避の前提となる。〈啓蒙〉の支配的な
語りはここではとくに抑圧的なものとは思えないしー真実の概念は変わりやすく
不安定なものでもないーーその逆なのだ! 真実は、この将軍があの組合指導者
の拷問と暗殺を命じ、この大佐があの村の虐殺を指揮した、ということである。
これらの真実を公にすることは、近代主義の政治の模範的な〈啓蒙〉のプロジェクト
であるが、こうした文脈でそれを批判することは攻撃されている体制の欺瞞的かつ
抑圧的な権力を助けることにしかならないだろう。」p204


 日本でも従軍慰安婦を巡って、上野千鶴子と鈴木祐子が論争した。上野が
ポストモダン派で鈴木が真実派。だがこの本は上野の側を一方的に否定してる訳ではない。


「本当はあれかこれかの問題ではないのだ。差異、異種混交性、移動性それ自体
では解放的ではないが、真実、純粋性、静止状態もまた同じことである。
真に革命的な実践は、生産のレヴェルに差し向けられるものである。真実が
私たちを自由にするのではなく、真実の生産のコントロールがそうするのだ。
移動性や異種混交性が解放的なものなのではなく、移動性と静止状態、純粋性と
混合性の生産のコントロールが解放的なものなのである。」p205


 「生産」という言葉がまだ分からないので、結局レトリックで誤魔化してる
だけちゃうん?という疑問は残る。でもとにかく、クリアーな対立を取り上げ、
具体的な分かりやすい例を短い文章で説明し、「本当はあれかこれかの問題ではない」
と明確な結論を出している。分かりやすい文章、と言うことはできるだろう。

野原燐