松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「人道に対する罪」とは?

数日前、めずらしく何人かの方から、コメントいただいたのにお返事できないでおります。申し訳ない。
ホロコースト」について語ることとアウシュヴィッツについて語ることの落差をどう文章化すればよいか迷っていたからである。


第二次世界大戦中にヒトラー率いるナチス政権下のドイツおよび、その占領地域においてユダヤ人などに対して組織的かつ意図的に大量殺戮が行われた。
1945年5月ナチス・ドイツ敗北後の戦後処理としてニュルンベルク裁判が行われ、「ホロコースト」は人道に対する罪として裁かれた。
まずこの「人道に対する罪」でつまづいてしまった。

* C項「人道に対する罪」((c) Crimes against Humanity) とは「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、捕虜の虐待、追放その他の非人道的行為」と定義されたが、この法概念に対しては当時から賛否の意見が分かれていた。なお、このC項は、日本の戦争犯罪とされるものに対しては適用されなかった。(wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF

日本の指導者28名が裁かれた東京裁判には「人道に対する罪」で起訴された被告はいない。
A級戦犯の起訴理由にはA級だけでなくB級も含まれ、B級で有罪となった者だけが死刑になり、A級だけで死刑になった被告はいない。*1


では「人道に対する罪」で有罪になった日本人はいなかったのか、というと下記によるとあった。

 戸塚弁護士は、一九四八年三月、横浜法廷でBC級戦犯として米によって行われた花岡事件に関する原判決と翌四九年五月の再審査の裁判記録を、米国立公文書館で入手し、分析。二日、東京で行われた国際法律家委員会(ICJ)国際セミナーで公表した。

 調査によると、鹿島組(現鹿島)関係者に対する原判決は「通例の戦争犯罪」によって裁かれたが、被告側から異議が出されて再審査となった。

 裁判所側は「日本人の意のままに連行され、収容所で日本による排他的支配と統制に服せしめられたのは明らか」と判断したうえで「奴隷化その他の非人道的行為にいたらしめた」との再審査官の意見を採用、被告側の異議を却下した。

 戸塚弁護士によると、再審査は連合国軍総司令部(GHQ)が出した「戦争犯罪被告人裁判規定」に沿って判断したが、原判決の「通例の戦争犯罪」に代えて同規定に盛られている「人道に対する罪」が適用されたとしている。

 人道に対する罪は、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判で国際法上確立した概念。通例の戦争犯罪との大きな違いは(1)戦争時以外でも適用できる(2)自国の一般市民が被害者の場合も対象(3)犯罪地の国内法に関係なく適用――などで、犯罪責任が国家にある場合、賠償責任を負う。
http://blog.goo.ne.jp/tohoho_goo/e/06addd3cf315a6795136eed48669d428

花岡事件」に対する判決がそれですね。ただ問題の重大性のわりにほとんど知られていない。*2
なお、この「とほほブログ」記事(2005年11月)に「教育出版は、前回まで唯一秋田の花岡事件を扱っていた教科書で、今回ついに花岡事件を削除し、すべての教科書から花岡事件が消えてしまいました。」という注釈もある。

人命の価値の格差

ということが今回のガザ空爆でもテーマになっているので、次も引用しておく。

 日本に対してC級戦争犯罪(人道に対する罪)が適用された事例としては、花岡事件秋田県花岡鉱業所鹿島組への中国人強制連行・強制労働事件。被害者986人中、過重労働、暴行拷問、飢餓等で419人が死亡[1])があります。

 そのとおりですね。
 例えば、米兵捕虜3名を惨殺した石垣島事件のケースでは最終的に7名が死刑になりましたが、419名の中国人が死に追いやられた花岡事件では死刑判決3名、しかしいずれもその後禁固刑に減刑、という結果になりました。
 単純に人数比で考えるわけにもいきませんが、ものすごい人命の価値の格差です。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/class-c-crime.htm

*1:A項(イ項)平和に対する罪:有罪15名 A・B項(イ・ロ項)併合:有罪9名 B項(ロ項)通常の戦争犯罪:有罪1名(松井石根) C項(ハ項)人道に対する罪:なし

*2:「人道に反する罪」=「ホロコースト」という陰謀があるわけでもないのに何故だ?

アウシュヴィッツ/表象不可能性

「表象 不可能」でググると、期待したとおりショアーについての文が見つかった。

シンドラーのリスト』に対して集中した批判の一つに表象不可能性の問題がある。ナチス・ドイツによって520万人ものユダヤ人がユダヤ人であるがゆえに虐殺され、その痕跡をも徹底して残さず、一つの民族の存在自体を「大量生産的」なやり方で抹消するという人類の歴史上初めて行われたホロコーストという未曾有の出来事に対し、それを表象=再現することは絶対に不可能であるとクロード・ランズマンは断言する。ランズマンはまた『ショアー』で証言する当事者たち、絶滅の連鎖の最後まで行き着きその果てから生還しえた人たちがみな口をそろえて言うような「理解不可能なこと*2」、つまり言語化することさえできない文字通り想像を絶した状況、「語りえぬこと」を表象することは不可能であり、またそれを行うことは重大な侵犯行為となるという*3。

 *2 「あれ、あれはね、言葉にするわけにはいけませんよ。どんな人にも、ここで行われたことは想像できません。無理です。誰にも理解は、不可能です。今、考えたって、ぼくにはもう、わからなくなっているんですから…。」『ショアー』の冒頭でヘウムノ絶滅収容所からの生還者シモン・スレブニクがその収容所の跡地再び訪れたときの言葉。クロード・ランズマンショアー』訳・高橋武智(作品社・1995年)。

 *3 「ホロコーストがユニークなのは何よりも次の点においてである。すなわちそれは、ある絶対の恐怖が伝達不可能である以上、自分の周囲に踏み越すことのできない限界を炎の輪のように作り出す。この限界を踏み越えようとすることは、最も重大な侵犯行為を犯すことにほかならない。フィクションとは一つの侵犯行為である。表象=上演にはある禁じられたものが存在すると、私は心底から思っている」クロード・ランズマンホロコースト、不可能な表象」訳・高橋哲哉『『ショアー』の衝撃』(未來社)所収。
http://www16.ocn.ne.jp/~oblique/texts/NaokiKATO/elephant_nobody1.htm

アウシュヴィッツは語り得るか?

 id:hokusyuさんやid:apemanさんは本気で怒っておられるようだが、正直に言って、その怒りがどういうもの なのかなお私には分かりづらいところがある。一つの食い違いは何を核心と考えているかにあるのだろう。


 国家あるいは政治的社会は自らをある限定として提示することがある。

ドイツ・オーストリア・フランスなどでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されている。ドイツでは1994年から「ホロコースト否定」が刑法130条第3項で禁じられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88#.E3.82.A4.E3.82.B9.E3.83.A9.E3.82.A8.E3.83.AB.E3.83.BB.E3.83.91.E3.83.AC.E3.82.B9.E3.83.81.E3.83.8A.E7.B4.9B.E4.BA.89

 法律の条文である以上それは明確に規定され、誰が読んでも同じ意味を持つものでなければならない。


しかし、一方で、アウシュヴィッツの本質は言表不可能性にあるとする、一群の言説がある。

 ・・・それは、取り逃がされたり、新たに忘れられたりすることなしには表象されえないものなのである。なぜなら、それはイマージュや言葉にそむくからだ。したがって「アウシュヴィッツ」をイマージュや言葉で表象することは、それを忘れさせるひとつのやり方なのだ。
p67 リオタール「ハイデガーと「ユダヤ人」」isbn:4938661489

 このような断片を引用することと、「ホロコースト」=PC(政治的正しさ)を考えることとの間には、かなり落差がある。

3/22にも引用したが「偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されてもおかしくなかった者は、生きていてよいのか」と言っても、生きつづけることはできるとしか答えられないのが常識の立場であろう。ではこの文章は何を意味しているのか?


約40万人のユダヤ人が殺されたヘウムノ収容所からのわずか二人の生還者のうち一人がスレブニクさん。映画『ショアー』の冒頭にはこの人が登場する。戦後イスラエルに住んでいた彼は映画監督ランズマンに見出され数十年後にその収容所跡を訪ねる。

 彼を収容所の生還者と呼ぶことはできません。戻ってきた人あるいは幽霊(revenaut)なのです。なぜなら、彼はあそこにいるはずのない人なのですから。(ランズマン)
(p68 『戦後責任論』isbn:4061597043

 それでもって、高橋哲也は「「亡霊」として戻ってくる記憶、それが「戦争の記憶」にとって決定的に重要だ」という。*1
戦後、失われた秩序を再建しようと人々は必死で努力する。そのただ中に帰ってきてしまう男/女がいる。戦後の時間を持たず戦争の記憶だけをもった人が。そのような亡霊、は、「まさにアナクロニックに戻ってくる。人々が忘れたころに、忘れようとしているときに(略)戻ってくるものなのだ、と。」*2


http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050824#p1でも、デリダ(解説本。林、廣瀬)の 「また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。云々」という文章を大江健三郎の「あまりにも巨きい罪の巨塊」というフレーズとの関連で引いておいた。


「絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。」ともデリダは言っているのだが、これを強調することはマズイと考えるのはあながち間違っていない。
裁判手続きほど厳格ではなくとも、対話的やりとりに耐えられないものを事実と認めてもらうのは困難である。「アウシュヴィッツ」について言葉で表象することができないなら、それによって人を裁くことができなくなってしまう。

造形大での市田良彦氏のレクチャーへ。ポストモダンを「新しいことはない」「決定不能性」と定義し、そこからポスト・ポストモダンとでも言うべきその後の状況が、リオタールの転換を指し示しながら提示されていく。(リオタールのユダヤ主義化や80年代後半からのレヴィナス人気)。そこでは、「決定不可能性」が「他者」や「崇高」という概念に結びつきつつ、ポスト・ポストモダン=「倫理」ではないかと述べられた。

簡単に言うと
「決定出来ない」(「表象できない」)
→「決定してはいけない」(「表象してはいけない」)・・・倫理の問題
への変化として捉えられる。具体的には、クロード・ライズマン『ショアー』における非ホロコーストの表象不可能性と、アウシュビッツの4枚の写真をめぐる表彰してしまっていいのかという問題として提示される。
さらにここでは〈他者〉(表象不可能性)をめぐって、政治と美の問題が〈倫理〉という点において出会うとされる。

しかしその〈他者〉を設定するということは、我々という公共空間とその外部として排除するという理論であり、ある意味で非常に古典的な共同体感に繋がっていくことになる。
http://shinkiti.exblog.jp/8847780/

 ちょっと不用意な引用になってしまったが、(表象不可能性)において〈他者〉という幻の原点をどこかにしっかり措定してしまうなら、それはやはりマズイ。


「「アウシュヴィッツ」という非日常を特権化することも、「アウシュヴィッツ」と無縁な日常性を特権化することも、ともに日常もしくは非日常の「物神崇拝」におちいってしまうだろう。」と細見和之は述べている。*3
(表象不可能性)について語る権利を獲得するためには、表象可能なもののすべてを(ざっと)確認する必要があるのかもしれない。

*1:p79

*2:p80

*3:アドルノ」p186 isbn:4062659158