松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本人=村上春樹ファンは、イスラエルに行き、卵を買って壁にぶっつけよう!

村上は、スピーチで、パレスチナ人を積極的に支持表明しなかった一方、シオニスト中道から左派のメンタリティに親和的であることを、あらためて示した。
http://d.hatena.ne.jp/tmsigmund/20090220


そんなことは最初から分かっていたことでありいま批判する意味がどこにあるのでしょうか。

システムと卵について

村上春樹は優れた文学者であり、〈卵〉という優れた喩を提出した。*1
卵とは二重の消極性によって規定されたそうした存在である。
ひとつは壊れやすさ。偉大なる壁、わたしたちの生を守るために不可欠な壁というもの、にぶつかりあっけなくこわれてしまう。
ひとつは可能性である。卵は普通のにわとりのたまごかもしれないし、恐竜のそれかもしれない。いまだ実現していない可能性の喩として卵はある。そして今だ卵が卵のままであるということは、孵化に必要な温みと時間をそれが得られなかったことを示す。卵は卵であるだけで、温みと時間の欠如、つまり愛の欠如をひりひりと告げているのだ。
卵の側に立つとは、言葉の側に立たないということであり、「テロとの戦い」に参加しないということである。
卵の側に立つとは、愛の欠如をひりひりと告げられるということである。60年に及ぶパレスチナ人民への不正が、どのような詭弁によってか、自然化され問題視されないそうした言説空間の中心であるエルサレム
世界を歪曲させる〈正義の神殿〉に招かれ春樹は演説した。その内容は世界の歪曲を正しく批判するものであった。卵の側に立つとは、言葉の側に立たないということであり、温みと時間の側に立つということである。
卵の側に立つとはヒューマニズムの立場ではない。ヒューマニズムとはヒューマニストであることの是認である。イスラエルで演説し安全に帰って来る主体の是認である。
卵の側に立つとは、主体ではなく主体の破壊という危機の側に立つということであり、ヒューマニストという自己を肯定することへの批判である。すでに打撃が加えられヒビが入っているがまだ死亡するに至っていない*2そうした存在のかたわらに立ち温みと時間をそれと共有する・・・そのような位相を立て、それの欠如として自己を認識することである。

 以上、徹頭徹尾、真剣に、自分に都合よく解釈してきました。文句がある人はいくらでもどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090218

というmojimojiさんの路線の延長上で、さらに〈卵〉の喩を深く受け取ってみた。

*1:わたしは春樹無関心派で、どちらかいうと否定派に近いのですが、こういう物言いをしたためにtmsigmundさんに怒られてしまった。21日19.46

*2:だって数百万もいるんだもの

村上春樹の怨親平等思想

彼のスピーチの一部

He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike.

に対し、ajitaさんはこう解説する。

父は、死者すべてを供養するのであって敵も味方も同じだと言いました。”というのは、端的に言えば、仏教の「怨親平等」の思想である。
(略)
しかし、彼がセム一神教の中心地で、仏教(あるいは仏教的なるもの)の真髄を語ったことに敬意を表したい。
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090221/p1

ふむ、「怨親平等」ってどっかで聞いたことがあるなと検索したらちゃんとnoharraブログにある。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050804

いまは一神教vs仏教という構図にはまりたくはないが、日本では靖国ナショナリズムを相対化する上で貴重な「伝統」として再評価する価値がある。イスラエルでも、パレスチナ人も同じ人間として平等に扱うべきととなえるべき情勢がある。

「牢獄から我々は脱出できない」は嘘

でその上で、次の問題がある。

 ハルキのエルサレム賞演説は、それが優れたものであればあるほど、エルサレム賞の権威を高めてしまう。日本よりよほど高度な民主主義国家であるとと同時に、文学的文化的にも高度な国であるという事実をいやがおうでも見せつける結果になる。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090217#p1

ところが、嘘を嘘だと言い、自分にできるできる限りの誠実な態度を取ろうとすると、それすらも「永遠の嘘」を構成し、補強する一部になってしまう可能性があります。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090216/p2

 わたしはhokusyuさんとは違って、これはアウシュヴィッツイスラエルという特定の歴史ー地理的言説空間の歪みとして考えている。だから日本人は素直に考えれば、その磁場に歪められずに思考〜行動できるはずだ。*1

 逆に、あらかじめ「賞を貰った上でどれだけ批判しようとも、それはイスラエルの「寛容さ」を示す材料にしか使われない」と断定する態度はどうでしょうか。その批判的なトーンとは裏腹に、プロパガンダが認めさせようとしている前提を共有してしまっているのです。これこそが、このプロパガンダの完成を手助けしていると言えないでしょうか?なんでわざわざ自分でそんなことをしようとするのか、僕は不思議でなりません。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090220/p1

 イスラエルという特定の歴史ー地理的言説空間の歪み、なんてことは例えばサイードにも書いてあることであり、それを私が強調することにどういう意味があるのか。予備知識なしに、傷ついた子供の写真を見て感情的になっただけの人であればその人に何が欠けている、と野原は主張しようとしているのか。いや別に主張すべきことはない。

なぜなら、アウシュヴィッツ(ガザ)の後で、どのような正義=主体が存続可能なのか? 
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090217#p1

 とは、まさに自己解体とともにしか書き得ない1行であり、そうした危機に立っていない私が書くのはおかしい、と指摘されるでしょう。
しかしわたしは下記のような、わたしの存在を少し越えた、不可能性を孕んだ文体に親しむ機会を経つつ、考えてきました。結果として、不可能性を口にすることが直ちに不誠実になるわけでもないし、ふつうの生活のなかで不可能性に出会う可能性も(いつだって)ある、とは言えるのではないか、と考えています。

自己が依拠してきた最近発想や存在の様式を変換する契機を、日本の戦後過程における社会構造の責任との関連において、極限的に迫求する方向に見えてくるヴィジョン。(松下昇) http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000123#p1


アウシュヴィッツ(ガザ)の後で、どのような正義=主体が存続可能なのか?
「しかし、今僕は、インテルのCPU&マイクロソフト・ウィンドウズ搭載のパソコンで、これを書いています。(mojimoji)」
分裂した主体がそうであってもその総体を、なんらかの相互検証に開きうる、その上で他者からの指摘を自己に取り込みうる存在でありうると、仮りにそうであるとしたらならば、分裂した主体で十分上等ということになりましょう。

*1:といえるのに、なぜ2/17には否定しているのか?