松下昇への接近

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イスラエル/レバノン:果たされない戦争犯罪の説明責任

イスラエルレバノン:果たされない戦争犯罪の説明責任
投稿日時: 2007-7-13 17:53:54

ヒズボライスラエルの34日間におよぶ戦争から1年を迎えたが、昨年夏の紛争の際に行なわれた戦争犯罪および重大な人権侵害の責任者を訴追する動きが、当事国間にも、また国際的にも全くないことを、本日、アムネスティ・インターナショナルは非難した。

「被害者への補償を含めた公正かつ徹底的な調査が国連主導で行なわれなければ、同じことが再び起こる危険性はきわめて大きい。1000人を超える民間人を無差別に殺害した人びとに責任をとらせるという政治的意思は、完全に欠如している。これは被害者に対するひどい裏切り行為であり、今後、民間人の殺戮が免責される土壌をつくるものである」と、アムネスティの中東・北アフリカ部のマルコム・スマート部長は述べた。

[]戦争中も戦争終結後も、アムネスティは、イスラエル軍ヒズボラ戦闘員双方による国際人道法違反(戦争犯罪を含む)を調査し、その結果を3つの報告書として昨年発表した。すべての当事者がこうした人権侵害の調査をあからさまに嫌がっている。そのためアムネスティは国連に対し、ヒズボライスラエル双方の国際法違反の証拠を調査し、被害者への補償を行なう権限を持つ、包括的で公平かつ独立した調査を行なうよう求めた。しかし国際社会には、このような調査機関を設置するために必要な措置をとる政治的意思がない。

国連安全保障理事会は、当事者の同意なしにこのような案件について決議を行なう権限を持った機関であるが、こうした機関には、派閥政治と選別主義が存在する。これが事実上、レバノン人やイスラエル人その他の被害者が正義を得られないまま放置される要因となっている。

これと対照的なのが、レバノンのラフィク・ハリリ元首相暗殺その他の政治的殺害の責任者を訴追する法廷の設置を安保理が決めたことである。このことは、政治的意思があれば、当事者の一部が反対していても、真実を解明する機関を設置することができることを示している。アムネスティは、この法廷の設置を歓迎するが、昨年7月から8月にかけての戦争を含め、レバノンで起きた過去の戦争犯罪や人権侵害に対処するための包括的な戦略が緊急に必要だということも引き続き強く主張する。

イスラエルでは、イスラエル軍の行なったことに対する調査は軍の戦略の分野に限定されていて、イスラエル軍による国際人道法違反(戦争犯罪を含む)の調査およびその責任者の訴追の試みはない。レバノンでは、公式な調査は一切行なわれていない。国連人権理事会が任命した調査委員会が入手できたのは、イスラエル軍による人権侵害の証拠のみという偏ったものだった。

イスラエルレバノンをはじめ関係諸国は、戦争犯罪の被疑者を捜査し訴追すべきである。

2006年8月11日に国連の仲介で停戦が実現し紛争は終結したが、その影響は今も市民たちに重くのしかかっている。

イスラエル軍が使用したクラスター爆弾で、レバノン南部の多くの人びとが殺されたり、負傷したりした。クラスター爆弾がもっとも多く使用されたのは、停戦の合意から発効までの、紛争最後の72時間だった。国連地雷除去調整センター(UN-MACC)は、不発だがまだ殺傷力のあるクラスター爆弾やその他の弾薬の残りが散在する地域として922カ所を特定し、すべてを除去するのに1年以上かかると推定している。UN-MACCによれば、停戦から今年の6月20日までに、レバノン南部の不発クラスター爆弾で32人が死亡、210人が負傷したという。死亡した32人のうち24人は一般市民で、8人は地雷除去作業員だった。

アムネスティイスラエルに対し、クラスター爆弾を落とした地域を詳しく示す地図を提出するよう、再度要求する。地図は、爆弾撤去のため、およびさらなる犠牲者を出さないために必要不可欠である」とマルコム・スマートは述べた。

またアムネスティイスラエル政府に対し、クラスター兵器を全面的に使用停止し、イスラエル軍が過去数年間にレバノン南部に埋めた地雷の場所を示す地図を渡すことも求める。

イスラエルヒズボラが武器による重大な国際人道法違反を引き起こさないと保証する効果的な仕組みができるまで、安保理は両者に対する武器の禁輸を宣言し実施すべきである」とマルコム・スマートは言った。

アムネスティヒズボラに対し、2006年7月12日に拘束したイスラエル兵士2人に関する情報を提供し、2人が赤十字国際委員会に今すぐ接触できるよう引き続き要求する。

AI Index: MDE 02/001/2007
2007年7月12日
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=335
Amnesty International-イスラエルレバノン:果たされない戦争犯罪の説明責任 - 中東 - ニュース

二重の基準論

現在、精神的自由の規制立法については、経済的自由の規制立法についての違憲審査基準よりも厳格な(厳しい)基準が妥当すると考えられています。二重の基準論といいます。憲法訴訟を勉強する時には重要な概念となります。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1503/kihontekijinken.html  基本的人権の尊重

しかし、日本の憲法学が受け入れてきた「二重の基準論」は、(カール)シュミットとは明らかに異なった自由観を前提にしていたはずである。そこでは、表現の自由が民主的意思形成過程の不可欠の構成要素だと考えられてきた。国民の意思形成に自覚的に影響を与えようとする表現活動が、まさにそのゆえに特に保障されるべき「自由」だと考えられてきたのである。孤立した個人の活動よりも、他者を巻き込もうとうする活動のほうが重く保障されるべきだというのことになる。
(毛利透「市民的自由は憲法学の基礎概念か」p5 isbn:9784000107358

自由の権力性とは何か

井上(達夫)は、自由な主体は自己の目的実現のため、世界を形成・変更する力を要求するとしたうえで、この要求は「他者を支配する権力への意志に容易に転化する」と述べる。*1

 ふーん。
わたしたちはすでに国家〜資本の圧倒的な支配のもとに居るので、その「支配」を相対化することがまず必要であろう。自由な主体例えば麻原ショウコウは悪をなす場合もあるが、国家悪より小さい。そのような反問に対しどう答えるのかよく分からない。

自由が権力志向を有することは、そのとおりである。*2

いわゆる戦後民主主義は「自由」という言葉に美しい価値だけを認め、自由の危険性を直視しなかった。

しかし他方で、この自由の権力性指摘によって自由と国家権力の対抗関係があいまいになってしまっては、国家権力への限定という立憲主義の根本原則が弱められかねない。他者を受容すべきは悪魔的「権力」であり、権力を握った者にもはや自由が認められないのは当然である。だが、市民的自由は権力を目指すものではあっても、権力行使そのものではない。(略)そして、無力な自由に「自己規律・自己限定」を求めることは、かえって権力による過度の自由制約をもたらす危険が大きい。*3

彼ら*4の危惧の背景にあるのは、政治において自由に委ねておいては、理性は生まれないという想定である。だから、自由を制限しなければ多様な価値観は共存できないということになる。*5

これは全共闘時代の体験の総括として言っているのかな。まあ「理性は生まれなかった」。で、機動隊導入によって理性は活性化したのかね。今日の奴隷情況が用意されただけでは?

具体的問題において何が公正な解決法なのかは、自由かつ開かれた議論を経なければ分からない。*6

論争の当事者たちが、普遍的視点からの理由づけというより強い説得力によってより多くの人々を巻き込もうと努力することによってのみ、より公正な世論形成に近づくことができる。*7

 結局のところわたしたちは〈自由かつ開かれた議論〉への信頼に依拠する。
しかし、その信頼に対する最終兵器としてすでに2ちゃんねるが存在し、信頼は崩壊寸前だ。*8

*1:同書 p9

*2:同書p10

*3:同書p10

*4:長谷部と井上

*5:同書p10

*6:毛利 同書p11

*7:毛利 同書p11

*8:といわれているが、従軍慰安婦問題を論じるテーマに即しても、それはデマでしかない。

比較不能な究極的価値観

長谷部は、近代立憲主義の「眼目」は比較不能な究極的価値観を社会公共に関わる議論から「排除する」ことにあるとまで強い表現を使うが、(略)どういう法的効果を持つ要請なのか、不明確である。*1

 日本の首相や閣僚は靖国神社に参拝するなという意味かな?

*1:毛利 同書p25