松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

国民党に売り渡された皇軍1万人

第二次世界大戦終結後、中国山西省に駐屯していた北支方面軍第一軍の将兵 1 万人は、武装解除を受けることなく敵であった国民党の司令官に引き渡された。

 世界の戦争史上、類をみないこの売軍行為は、あろうことか戦犯逃れを目論む日本軍司令官と共産軍の圧力を恐れた国民党司令官の密約によって引き起こされた一大スキャンダルだった。残留を余儀なくされ最後まで戦った2600余りの将兵は、戦後なお4年間も共産軍と戦い550名が戦死するなど多くの悲劇を生んだ。戦後日本政府は、国際法に抵触するこのおぞましい事件を隠蔽するために、一貫して兵士たちに責任を擦り付けてきた。自ら志願して国民党の傭兵となり、勝手に戦争をつづけた者とみなし切り捨てたのである。そのため共産軍との戦闘に駆り出されて戦死しても、母国の日本では何の補償も受けられず、生還しても軍人恩給の対象から除外されてきた。
http://www.arinoheitai.com/about/index.html
蟻の兵隊」とは?

軍が行ったことなのです。

「中国山西残留の日本兵問題」については次のサイト(urlは目次頁)がきちんと問題点を確認している。当時の資料(電報画像)も5点ありたいへん充実している。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/daiicigun_mokuji.htm
(2007/10月現在、下記に移っているようだ
http://www.tetsusenkai.net/official/e-mail/120917/godzillaswife/

上記を読んでもらえればいいわけだが、わたしがクリップしたところだけ下記に掲げる。

 この原因は、八路軍との戦いに日本軍の戦力を欲した、国民党第二戦区軍の閻錫山と、戦犯逃れの希望を持った、日本第一軍首脳の共謀ともいえるものでした。(詳細は下記) 昭和20年11月以降、閻錫山は、日本の第一軍司令官澄田らい四郎(らい=貝ヘンにつくりが来)中将以下、第114師団長三浦三郎中将他十数名を戦犯容疑者として軟禁し、「第一軍将兵1万人の残留(註・残留して閻錫山の第二戦区軍に加わること)が実現しなければ、
一、戦犯容疑者はもっと増えるであろう。とか、
二、日本軍民10万人(註・主に北支の閻錫山支配下山西省地域の日本軍民のこと)の内地帰還輸送は実現しない」

と宣伝させました。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_3.htm 山西残留の日本兵問題3

 これに対し、山西省の第一軍の異常事態を察知して、昭和21年3月9日に、南京から北京経由で太原に飛来した、当時の支那派遣軍総司令部作戦主任宮崎舜一中佐は、昭和50年9月号の「偕行」登載座談会記事で、「閻錫山の要求に従い、第一軍は閻を支援するために、 特務団(約15000名{ママ}の日本人武装部隊)の編成をすでに発令していた。」 「3月10日、11日の2回にわたり、澄田軍司令官の面前で、軍参謀・各部隊長・それに太原にいる各兵団長らを交えて、連絡会議を開き、(中略) 総軍の命令に反し、第一軍が特務団編成を発令したことにつき、強く難詰しました。」
とあります。(註・総軍とは支那派遣軍のこと。大本営支那派遣軍→北支那方面軍→第一軍)
 上記の証言によっても、「総軍の命令に反し」て第一軍首脳が、勝手に「発令」したことは、すでに証明されています。そして「発令」である以上、軍が行ったことなのです。(同上)

 この問題は五六年に国会で取り上げられ、残留工作にかかわったとされる支那派遣軍第一軍の澄田●(らい)四郎・元司令官らが参考人招致された。しかし、澄田・元司令官は「各部隊を回って全員帰還するように説明した」などと証言。厚生省は「残留兵は軍の説得に応じず自分の意志で残った」と結論付けた。(●は「貝」ヘンにつくりが「来」)
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_1.htm
山西残留の日本兵問題1

因みに部下が捕虜となった時点において、首謀者の第一軍司令官澄田中将はといえば、太原陥落直前の昭和24年2月に、飛行機で太原を脱出して、上海経由で帰国しています。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_4.htm
山西残留の日本兵問題4

 山西残留が第一軍命令であったとなると、日本国はポツダム宣言に違反したことになるわけです。国の体面と、元第一軍司令官澄田中将および元第一軍参謀長山岡少将の、自己の不行跡の責任逃れと保身の利害が一致したためか、彼ら、軍首脳の陳述を鵜呑みにして事実に反した認定がなされたのです。
この正反対の陳述を質す、臼井委員の問いに対して、政府委員の田邊委員(厚生省引揚援護局長)は、「私どもの方針と致しましては、この前にも申し上げましたが、軍の首脳が第一線の将兵に対して残留しろということは、われわれとしてはあり得ないことであるというように、考えておるわけであります。
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_5.htm
山西残留の日本兵問題5

このサイトは右翼系の方がやっておられるみたいだが、ずいぶんまともな意見も多い!

軍閥閻錫山

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm
野原の「わたしたちは忘却を達成した」では、上の問題に次のように簡単に触れている。

註6 山西省太原には軍閥閻錫山がおり、それと結んだ旧日本軍の一部(と河本大作など)が戦後も残留して活動していた。一九四九年四月に共産党軍に敗北した。NHとYKはこのとき捕虜となった。ソ連の捕虜にはなっていない。

中国人に対する残虐行為のサンプルを5つ引用しているが、そのうち3つは山西省でのできごとのようだ。

α 中国山西省太原の近くロアン陸軍病院、一九四二年。N中佐が手術演習を告げる。生きている中国人農民が二人用意されている。一人の男が台の上に横たわる。看護婦は男に「麻酔をするから痛くないよ」と中国語で語る。静脈麻酔。男の身体には拷問の痕はない。腰椎穿刺の練習。クロロエチール全身麻酔の練習。虫垂の摘出。上腕の切断。腸の吻合手術。気管切開。心臓に空気を10cc強注入。腰紐で首を閉める。クロロエチール5ccを静脈に注射。呼吸停止。衛生兵が屍体を片付ける。軍医YK氏は夜同僚と酒を飲みに外出する。(p17〜参照、野田正彰『戦争と罪責』、岩波書店、1998年、以下「同書」とはこの本のこと)

γ 一九四三年一月、山西省聞喜県北白石村。村の住民は一カ所に集められる。住民は抗日意識が強いようだ。NHは住民の中から十五人を選ぶ。隠しているはずの武器食料の在処を問うため皆の前で拷問する。一人を殴打。続いて銃床や棍棒で殴らせる。拷問はずっと続く。彼らは何も言わない。彼らを一軒の家に閉じこめる。夕方また拷問。口のなかに銃剣を差し込みかき回す。舌はちぎれ歯も取れる(p195参照、同書)。
δ 上下谷口村。NHは農民三人を赤い房のついた槍で尻を刺して殺した。続いて五人、部下に同様に殺させる(p195参照、同書)。