松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

2005-11-01から1ヶ月間の記事一覧

神の死について

近代において、共同体内存在であった個が自由になり個人になった。ここで自立した諸個人による交流の場市民社会が形成されればよいが、実際は上手くいかないことも多い。市民社会から排除された女性や犯罪者からの異議申し立てが起こる。 また市民社会を形成…

祓え給え、清め給え

神道というものは ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。 というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98) 日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さま…

戦争がなくなればそれでいい

禍津日神も戦争を憎んで、それを去らなければ戦争を下されるが、それは善人に戦争を下す神さまではない。戦争を承知しない神様である。戦争がなくなればそれでいいという神様である。ここに戦争を祓うことが可能になるべき道理がある。(略) それが私の見た…

自覚のクライマックスで死を与える

ぼくは犠牲たることを回避しない。自己を捨てることをこばまない。しかしそのprocessとして自己を無にすることを嫌うのだ。それを是認できないのだmartyr(殉教)ないし犠牲は、自覚のクライマックスでなされるべきだ。自己喪失の極限が犠牲たることに、なん…

執行についてはあまり語られない。

法的思考は死刑判決というものをもってそこに執行の意味がすでに含まれるとし、執行というものは意味のない自動過程であるかのようにみなしたがる。わたしたちもそのような発想から逃れられない。しかし本当は違うのだ。判決を目指す公開の正義のゲームが時…

血にまみれたわれわれの手

ジーン・ウルフは「ひとを殺す」ことについて考察している。言い直すと、「(あなたを)わたしが殺すこと」が可能であるためには何が必要かについて。ひとがひとを殺すことは不可能である。あなたは(つねに幾分か)私の鏡像であるがためにあなたと呼ばれる…