松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

自覚のクライマックスで死を与える

ぼくは犠牲たることを回避しない。自己を捨てることをこばまない。しかしそのprocessとして自己を無にすることを嫌うのだ。それを是認できないのだmartyr(殉教)ないし犠牲は、自覚のクライマックスでなされるべきだ。自己喪失の極限が犠牲たることに、なんの意味があろうか。
(林尹夫 p330『ねじ曲げられた桜』より)

林尹夫は10/30付けで紹介した佐々木八郎などと同じく「大東亜戦争」の最後に特攻として散っていった若きインテリ兵である。45年7月撃墜された。
彼が過ごしていた海軍基地では、読書そのものが禁止されるという馬鹿げた事態が起こった。上の文章はそのような情況への怒りである。

愚劣なりし日本よ
優柔不断なる日本よ

彼は資本主義と軍国主義の病に侵された日本の破滅を願った。しかし彼は「新たな日本を創るため」特攻機に乗ることをためらわなかった。

<死へとかかわる存在>においてこそ、<そのつど私のものであるという性格>の自己自身が構成され、それ自身に到来し、その置き換え不可能性へと到来するのだ。自己自身の自身は死によって与えられる。
(p96デリダ『死を与える』のハイデッガーの論理の解説の部分より)

彼一個の死を、60年も経ってから、自らを国家に捧げけたのだとして、安物の国家主義の昂進の方向へ利用してしまう奴らを叩きつぶせ!