松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「国家の間に正義など無い」という言説

「国家の間に正義など無い」という言説

MickeyCat@Fox‏ @fjedpo
https://twitter.com/fjedpo/status/964278506719817728

国家の間に正義など無いのですよ。

そんな物は御花畑の日狂鼠が洗脳したもので弱肉強食、合従連衡、遠交近攻あるのみ。

そんな事日本人以外なら必ず教えられます

国家の生存圏を確保するために意地でも謝ってはならないのです


以下、野原の反応。

この発言はとても興味ふかい!
1,正しくないことを主張して、プライドを保つことができるという感覚がまったく分からない。

2,弱肉強食、合従連衡、遠交近攻あるのみ。>さきほどから聞いていることの答えはでましたね。外国人だけでなく、およそ理屈で相手を納得させるそうした営為に意味を見出していない、ということですね。
そのかわりに仲間を作ってワイワイやることで仲間内だけの「空気」を確立する、

それが日本で大きくなったものがネトウヨだというわけか。
3,海を渡る慰安婦問題、では第一章が能川元一さんの文章でそこに、佐瀬昌盛という人の文が紹介されている。
「(南京虐殺数問題)これは論証の問題というよりは、説得力の問題だ。声が大きい方が勝つ。(略)この論争が現在の国際政治ゲーム

のなかで行われているということだ。」
論証ゲームではない。「政治ゲームでは支持者の数が物を言い、そのためには論証において怪しくとも、熱心、かつ声高にさらには確信的に自説を唱えるのが有効である。」

4,でも、正義や事実を尊重しないのなら、いったいどうやって議論をするのだろうか?自分と違う意見については嘲笑、否定するだけか。

でもとにかく外国人相手だと、何か理屈を言わないといけないが、40人は杉田さんもう見放しちゃったのか?

言説の中身はどうでもとにかく主張を重ねさえすれば効果を生むことができるとする思想。
真実や正義というものは、何の値打ちもないとする。言説から価値を追放すれば意味もなくなってしまうのだがね。
広く広がっている「シニシズム」。きちんと考えないといけない。

わたしが非常に重要と考えているあなたの発言はこれです。
「国家の生存圏を確保するために(真実でも虚偽でも)意地でも謝ってはならないのです」つまり、「デマ」という概念をわたしは持たないと白状している。
(野原燐)

https://twitter.com/fjedpo/status/969076439650729984
デマに対して謝ってはならないと言ってるんだよ
日本のDQNさんとの対話の文脈を見れば解る
そうやって意図的に切り取るからあんたを藁人形と呼んでるのがわからないか?
ほんとあんた一部始終書かないと理解出来ないんだなあ

言い訳しているようだが、話のすり替えしかできていない。

                                      • -

このFoxはまだ生き延びている。

https://twitter.com/fjedpo/status/1108368782806777856
MickeyCat@fox:お初にお目にかかります。
どこの国にも恥ずかしいことはありますよ。
気にしたらキリがありません。

相手の国の恥を指摘したらよろしいんじゃないですか。

私は自分の国の悪いところばかり目につく日本人気質を克服しなくちゃ外国人と渡り合っていけないと思います。
23:04 - 2019年3月20日

野原:ここに登録してある MickeyCat@Fox だな。出てこなくてよいのに。
https://noharra.hatenablog.com/entry/20180301
「どこの国にも恥ずかしいことはありますよ。 気にしたらキリがありません。」残念ながら日本は大東亜戦争に負けたのです。その戦争のどこが悪くてどこは悪くなかったのか?、を(自国内の認識として)
確定できないがために日本は米国の従属国で有り続けているわけですね。この理屈が分からないから、ネトウヨはどうしようもないわけ、なんだが・・・

野原:おやおや、反論できない。
嫌韓やっている限り、日本は対米従属から脱却できない。愛国者ならよく考えて欲しい。

MickeyCat@fox:
あなたと話す気は無いし価値もございません。以上。

だいたい南京事件とか従軍慰安婦問題しか話題がないと婆さんたちにもてませんよ。

もっと教養を身につけてからのお越しを押しております。

野原:
「あなたと話す気は無いし価値もございません。」
>数限りなりネトウヨと言い合ってきたが、ブログを書くまで「敬意」を払ったのはあなたくらいだ。感謝していただきたい。
きちんと、反論いただきたい。
でなければ、敗北宣言してブロックせよ。

外国旅行の自由

「近代という時代のもっとも大きな特徴のひとつは、人々が自由に移動しうるということです。いかなる理由があれ、人々の自由を認めない国・制度は、その国・制度がいかなる名称で呼ばれようとも、前近代的国家、前近代的体制、すなわち、封建的、絶対主義の国家・制度といっていいと思います。・林誠宏
林誠宏『帰らざる日本人妻たち』p159 この近代の原則に対し、帰国運動で帰った在日(日本妻含む)だけでなく、一般国民にも外国旅行の自由を与えなかったのが独裁者金一族だ。その地獄の制限を破るものは難民になるしかない。それに対して、日本のネトウヨは国境を越えるな、国境の絶対性を守れと言う
すなわち、独裁者金正恩を憎むのと同じだけのありったけの熱意でもってネトウヨを憎まなければならない。

あとで、整理するが、とりあえず、林誠宏『帰らざる日本人妻たち』という本の題をメモしておきたい。

私は在日朝鮮人ではない。(だから)約93000人の在日朝鮮人(数千人の日本人妻含む)の帰国運動も書籍で読んだりして知っただけだ。
しかし、今日出会った人は「脱北者のことを(何も知らないからか?)金正恩一派と同一視し」できる限り日本への再入国を認めないのが正義だと思っている。酷い!
何十年も苦しんできた人なら、余計耐え難いだろう。
殺されそうになった人と殺そうとした人をどうやって同一視できるのだろう。出自が朝鮮であれば皆同じで差別しても良いと感じてしまうのだろうが、それが間違いであるのは考えればわかるはずだ。なんとも言いようがない。・・・

九州大学生体解剖事件講演会

熊野いそ 講演会 を下記により行ないます。(直前の告知で申しわけない)
2/4(日)13:30〜大阪産業創造館6階で #倫理の境界
九州大学生体解剖事件は捕虜が生きたまま手術&解剖された事件です。


終戦直前の1945年春、九州帝国大学(現:九州大学)医学部で実際に起きた実験手術と解剖。米軍捕虜8名はこの手術によって殺されました。
ウィキペディアでの事件概要はこちら

遠藤秀作の小説「海と毒薬」のモデルになった事件と言われています。


このイベントは「九州大学生体解剖事件 70年目の真実(2015年 岩波書店)」の著者である、熊野以素さんにご講演いただいた後、一緒にワークショップを行う試みです。


場所:大阪産業創造館 (堺筋本町駅徒歩5分)
参加費:500円
第二部では、ワークショップも行います。

戦後のBC級戦犯裁判で大きく取り上げられたのは、捕虜虐待問題。
そのなかでも、最もスキャンダラスだったのは、この九州大学生体解剖事件でしょう。


ご著書によると、熊野さんは、鳥巣太郎氏の行動を微細に追うことで、この事件を追体験されています。


☆住民に対する無差別爆撃は国際法違反であり、その行為者を死刑にすること自体は認められるべきか?
☆なぜ生体解剖を行ったのか?生きた人間の体を切り開いて様々な手術を行うことには、臨床医として研究者として大変な魅力がある」のだろうか?
☆2回めの手術時、鳥巣は石山に「手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになる」と言うが「これは軍の命令なのだ」と拒否される。鳥巣は一時間遅刻して解剖実習室に行った。
☆1946年罪を問われた石山教授は自殺し、最も消極的だった鳥巣も責任を取らされることになる。48年8月、九大の鳥巣、平尾、森は二人の軍人とともに 絞首刑という判決が出た。
☆宗教の力も借り、罪の自覚を深めた鳥巣は、死刑を受け入れようとする。しかしその妻はあくまでその強制に逆らおうとする。
☆戦争という巨大な力、教授の権力という巨大な力に服従したばあい、服従は言い訳にはならない。しかしそのように冷めていることが本当にできるのか?
戦争中の一つの事件ではありますが、この事件はいまでも過去にすることができていない多くの問題を孕んでいます。
講演会にぜひ足を運んで下さい。
野原燐 


以下別件

ハイデガーの決断論批判について

國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』第7章は、ハイデガーの決断論批判になっている。
「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ……。」が、ハイデガーの概要。(P294)


それを國分は批判していくのだが、一部かなり違和感があったので書いてみたい。


退屈しているなら決断せよ、とハイデッガーは迫る。しかし、「決断するために、目をつぶり、耳をふさげ、いろいろ見るな、いろいろ聞くな、目をこらすな、耳をそばだてるな」 と述べているも同然だ、と國分は語るが、これはおかしい。(p298)
生きるとは、世人がやっていることに従うことだ、というのが初期状態としてある。(「〈ダス・マン(ひと)〉が日常性の存在の仕方を指定している」『存在と時間』第一篇第4章27節350)
サラリーマンなら朝7時に起き出勤する。ただ大雪であれば目的遂行するために「かなりの困難」が予想される。ここで「9時に会社に着く」という初期状態の目的と「かなりの困難」がはかりに掛けられ、「あるていど自由な判断」(ができるひとは)により今日はその目的遂行はあきらめるという「決断」が下される。「かなりの困難」を努力でクリアーして目的遂行するという選択肢もありうる。一般に困難がない仕事はないので、「あきらめる」ばかりしていれば仕事にならない。プラスの方向の「決断」も当然ありうる。雪道なのに走る、とか。


決断とはこのようにありふれたものにすぎなかろう。ところが國分は、「たしかに決断は人を盲目にする」とやたら話をおおげさにしてしまう。
「周囲に対するあらゆる配慮や注意からみずからを免除し、決断が命令してくる方向へ向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。」 p298


昨日は大雪のニュースとともに西部邁の入水自殺*1のニュースがあった。入水自殺するために確かに、上記のような決断=狂気が必要になるだろう。しかし故意に求められた狂気であったとしても「実はこんなに楽なことはない」とはまったく言えないだろう。「決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。(略)人は従いたがるのだ、と。」國分の思考回路から一歩外れてこれを読むとまったく意味不明である。
先の例として挙げた「会社に遅刻する決断」の場合、苦しさから逃避とはいえる。ところが次にくる形容詞なしの「従うこと」とはなんだろうか?ハイデッガー的にはこれはまず、世人支配への従順であるはずだが國分の場合、そのステップは考察の対象外になっている。


ハイデガーがいう退屈の第三形式「なんとなく退屈だ」がある。それはじつは「わたしは自由だ」ということをわたしに告げているのだ。でまあ自由の実現を「決断」と呼んでいたわけですね。p243
でわたしは、「決断」というものを、『存在と時間』の世人論くらいのとことに戻して自分なりに考えてみた。ところがここに、國分氏とわたしとのあいだにはズレが生じ、うまく説明できなくなってきた。


「「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。」と國分は書くが、決断にファシズムの雰囲気を嗅ぎとりそれをアレルギー的に拒否する戦後民主主義的(?)反応(と同じもの)に、結局のところ國分は陥っているのではないか。


「「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば、第一形式の退屈が現れる。」世界をどこから考え始めるのかを教えるものが哲学であるとすれば、どこから考えるのか、という出発点において國分は誤っている。
前述のように、サラリーマンなら朝7時に起き出勤する(あるいはもっと早く)。これが仕事に「従う」ことであり初期状態である。「遅刻しないように」とか考えると人為的な(疎外された)規則のように思えるが、そうではなく、農民はドイツでも日本でも千年以上前から毎日早くから勤勉に働いてきた。ひとが生きる文化とはそういうことの身体化としてあるのだろう。「退屈」を先にもってきて説明原理にするのは賢いとは思えない。


世人=仕事として生きることが原則であり、それに対する例外として、自由=決断が存在する。

ある決断をする。「決断をしたのだから、その決断した内容をただただ遂行していかなければならない。p301」ここもおかしい。会社にいけなくなり、2,3日あてどのない旅に出る。しかしあきらめて帰ってくれば、上手くいけばまた会社に復職し以前と同じ日常が戻ってくるだけだ。世人=仕事という巨大な慣習力の下にわたしたちが生きているということを國分は無視しているので、分かりにくい。
デフォルトとしての仕事=服従を見ないで、決断を「決断主義」と大げさにした上で否定してみせているだけだ。


「人間は日常の仕事の奴隷になっていた p302」。それはよい。「その仕事は決断によって選び取った」ものだろう、と國分は言う。そうではない。毎朝起きて働くというのが人間の文化であり、類としての人間はそのように自己形成してきたのだ。


「人間は普段、第二形式がもたらす安定と均衡のなかに生きている。p305」そのとおりであり、野原はそれを世人=従属的生き方、と考えるが、國分は認めない。決断をむりやり奴隷に結びつける國分の発想は、説得力がない。


大学の勉強という「退屈」を逃れ、資格試験勉強の奴隷に成るという対比を國分は掲げており、まあそういうことはあるだろう。それはしかし、大学の勉強が自由であり不安であるからであり、退屈という言葉を選ぶ必然性はないと思われる。それに、ハイデガーを読んで論文を書くことも同様に集中力、自己奴隷化が必要なわけであり、例の挙げ方が恣意的と言える。


さて、コジェーヴ がでてきて、批判される。
「決断し、自ら奴隷になる」のがコジェーヴのいう「本来の人間」だ。そうではなく第二形式の退屈を生きるべきだと國分は言うのだが、どうなのだろう。


ハラキリや特攻など「「歴史的価値」にもとずいて遂行される闘争(P319)」は、自由である人間の誇り高さとは無縁だ、とは必ずしも言えないかもしれない。しかし、わたしたちが常に具体的場面に則して考えるべきである。「先の戦争」では命令に従って、多くの残虐行為がなされた。つまり「世人」という習慣が人間であり、そこまではまあ良いとしてもそれをど外れた強度にまで疎外しようとするのが戦争時における国家であり、悪の究極である。(ファシズムが悪ならそれと戦うのは悪ではないという議論はしばらく置く。)
壮大な勘違いをしているのは、「決断」一般を否定してしまう國分の方である、と思われる。


国民国家の理念にもとづいて大戦を引き起こし、自国民たちを戦場で見殺しにしたヨーロッパの国々の社会体制、について、國分は愚劣だと述べる。
国家というものが、日常を切断する権力への幻想において成立しているというならそうかもしれない。


過激派=奴隷になる、ことへの警戒というものが、國分の基本思想のようだ。だが結局、どうなのか? 平凡な理解だが、世人=服従が、ハイデガーや特攻のように国家と同致したときの方がより大きな災厄をもたらした、と歴史から学べるのではないのか?
したがって、世人(第二形式)ではなく、決断=第三形式の方にだけ奴隷になることを、結びつける國分は恣意的でしかない。


習慣の獲得というものを、近代主義がともすれば、軽視、蔑視してきたという批判は正しいだろう。
習慣によって、目に入っていくるものすべてを受け入れるのではなく、そのほとんどを切り捨てるという説明がある。習慣を獲得することにより「考えて対応するという煩雑な過程から解放される」、という。その正しさは一面的でしかない。農民が農地を見る時、そのすべてを深く見た上で不要なものだけ切り捨てているのだ。そこにあるのは有機的自然との交流であり、近代的主客図式による情報摂取ではない。
稲の穂の膨らみ具合を見て取り、それに応じた作業を行う。それは反射的行動のようにも見えるがそうではない。かなりの要素を組み合わせて瞬時に判断した結果結論を出しているのだ。習慣とは考えないですむことではない。より速く考えることに過ぎない。


環境を情報として扱うことが、すでに世界の平板化だ。人間は考えないですむ方向に向かって生きていく、とある。そいういうこともあるかもしれないが、例えば音楽を聴く場合、より深く聴けるようになっていくだろう。またおそらく、例えば農業を続ける場合も、世界と自己はより多次元的に深く交流できるようになり、相互変容していく可能性があるのだろうと思う。


付記:
ハイデガーの決断論批判に関係ある本として、アドルノ『本来性という隠語』がある。難しくて紹介も引用もできないが、ほぼ納得させられた。上記に反映してないけど。

*1:1.21

慰安婦像、合意後に6カ所設置

 日韓両政府が慰安婦問題の最終的解決で合意した2015年12月以降、韓国国外で新たに6カ所に朝鮮半島出身者の慰安婦像・碑が建てられたことが外務省の調査で3日までに判明した。日本側は、合意に反する動きだとして各地域で撤去へ働き掛けを強めているが、歯止めがかからない状況に焦りも広がっている。

 外務省によると、15年末以降に設置された朝鮮半島出身の慰安婦に関する像や碑は、米国が最多で、カリフォルニア州サンフランシスコ市やニューヨーク市など4カ所。ドイツとオーストラリアがそれぞれ1カ所となっている。2018/2/3 17:13
https://this.kiji.is/332428591126742113

慰安婦像・碑を建てることが合意違反?外務省がそう考えているのか?安倍氏個人がそう考えて外務省にゴリ押ししているのではないのか?共同通信は「合意に反する」という理解になんら疑問を持たなかったのか?
おかしいじゃないか。

ドゥテルテ大統領は拒否

 フィリピン政府が、首都マニラに建てられた従軍慰安婦追悼像を撤去してほしいという日本の要求を、「憲法上の表現の自由」を理由に拒否した。日本はフィリピンにとって最大の援助国、かつ米国に次ぐ貿易相手国だ。

 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は16日、現地メディアのインタビューで「被害者追悼像の設置は、私には妨げられない憲法上の権利。最近フィリピンを訪れた日本の野田聖子総務相に、『まだ生存している元慰安婦の女性や家族が、銅像を通して表現したいことを表現する自由を妨げることはできない』と伝えた」と語った。
http://news.livedoor.com/article/detail/14179156/

ちなみに、野田聖子総務相発言を聞いて私は日本の政治状況に絶望した。というのは彼女はポスト安倍候補として、安倍との違いをアピールしなければならない立場であり、現にこの発言に前後して、明治維新150年を強調しすぎることに疑問を呈している。その彼女が「慰安婦像」問題については「違い」アピールを一切しなかったということは、(3年前?)の朝日誤報キャンペーン以後の、わけのわからない「反慰安婦意識」がほとんどの政治家に深く浸透していることを示しているのだろう。
(1.19記す)

何の大義もなくマニラの慰安婦像にケチを付けるな!!

フィリピン大使館にメールした。

「マニラを訪れている自民党の河井総裁外交特別補佐は17日、ドゥテルテ大統領と会談し、日本大使館の近くに慰安婦問題を象徴するフィリピン人女性の像が設置されたことに懸念を示す安倍総理のメッセージを伝えました。」
と報じられました。しかしながら私は一人の日本国民として、安倍首相および自民党の今回の行為に大きな疑問を持つものです。慰安婦問題については、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題として、日本は反省しており、今回の慰安婦像に何ら日本を傷つけるものではありません。安倍首相の特異な感じ方は日本人を代表するものではないことを、大統領にぜひお伝え下さい。