松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

九州大学生体解剖事件講演会

熊野いそ 講演会 を下記により行ないます。(直前の告知で申しわけない)
2/4(日)13:30〜大阪産業創造館6階で #倫理の境界
九州大学生体解剖事件は捕虜が生きたまま手術&解剖された事件です。


終戦直前の1945年春、九州帝国大学(現:九州大学)医学部で実際に起きた実験手術と解剖。米軍捕虜8名はこの手術によって殺されました。
ウィキペディアでの事件概要はこちら

遠藤秀作の小説「海と毒薬」のモデルになった事件と言われています。


このイベントは「九州大学生体解剖事件 70年目の真実(2015年 岩波書店)」の著者である、熊野以素さんにご講演いただいた後、一緒にワークショップを行う試みです。


場所:大阪産業創造館 (堺筋本町駅徒歩5分)
参加費:500円
第二部では、ワークショップも行います。

戦後のBC級戦犯裁判で大きく取り上げられたのは、捕虜虐待問題。
そのなかでも、最もスキャンダラスだったのは、この九州大学生体解剖事件でしょう。


ご著書によると、熊野さんは、鳥巣太郎氏の行動を微細に追うことで、この事件を追体験されています。


☆住民に対する無差別爆撃は国際法違反であり、その行為者を死刑にすること自体は認められるべきか?
☆なぜ生体解剖を行ったのか?生きた人間の体を切り開いて様々な手術を行うことには、臨床医として研究者として大変な魅力がある」のだろうか?
☆2回めの手術時、鳥巣は石山に「手術に九大が関係しとるということがわかれば、後で大変なことになる」と言うが「これは軍の命令なのだ」と拒否される。鳥巣は一時間遅刻して解剖実習室に行った。
☆1946年罪を問われた石山教授は自殺し、最も消極的だった鳥巣も責任を取らされることになる。48年8月、九大の鳥巣、平尾、森は二人の軍人とともに 絞首刑という判決が出た。
☆宗教の力も借り、罪の自覚を深めた鳥巣は、死刑を受け入れようとする。しかしその妻はあくまでその強制に逆らおうとする。
☆戦争という巨大な力、教授の権力という巨大な力に服従したばあい、服従は言い訳にはならない。しかしそのように冷めていることが本当にできるのか?
戦争中の一つの事件ではありますが、この事件はいまでも過去にすることができていない多くの問題を孕んでいます。
講演会にぜひ足を運んで下さい。
野原燐 


以下別件

ハイデガーの決断論批判について

國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』第7章は、ハイデガーの決断論批判になっている。
「人間は退屈する。その退屈こそは、自由という人間の可能性を証し立てるものなのだ。だから決断によって自らの可能性を実現せよ……。」が、ハイデガーの概要。(P294)


それを國分は批判していくのだが、一部かなり違和感があったので書いてみたい。


退屈しているなら決断せよ、とハイデッガーは迫る。しかし、「決断するために、目をつぶり、耳をふさげ、いろいろ見るな、いろいろ聞くな、目をこらすな、耳をそばだてるな」 と述べているも同然だ、と國分は語るが、これはおかしい。(p298)
生きるとは、世人がやっていることに従うことだ、というのが初期状態としてある。(「〈ダス・マン(ひと)〉が日常性の存在の仕方を指定している」『存在と時間』第一篇第4章27節350)
サラリーマンなら朝7時に起き出勤する。ただ大雪であれば目的遂行するために「かなりの困難」が予想される。ここで「9時に会社に着く」という初期状態の目的と「かなりの困難」がはかりに掛けられ、「あるていど自由な判断」(ができるひとは)により今日はその目的遂行はあきらめるという「決断」が下される。「かなりの困難」を努力でクリアーして目的遂行するという選択肢もありうる。一般に困難がない仕事はないので、「あきらめる」ばかりしていれば仕事にならない。プラスの方向の「決断」も当然ありうる。雪道なのに走る、とか。


決断とはこのようにありふれたものにすぎなかろう。ところが國分は、「たしかに決断は人を盲目にする」とやたら話をおおげさにしてしまう。
「周囲に対するあらゆる配慮や注意からみずからを免除し、決断が命令してくる方向へ向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。」 p298


昨日は大雪のニュースとともに西部邁の入水自殺*1のニュースがあった。入水自殺するために確かに、上記のような決断=狂気が必要になるだろう。しかし故意に求められた狂気であったとしても「実はこんなに楽なことはない」とはまったく言えないだろう。「決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。(略)人は従いたがるのだ、と。」國分の思考回路から一歩外れてこれを読むとまったく意味不明である。
先の例として挙げた「会社に遅刻する決断」の場合、苦しさから逃避とはいえる。ところが次にくる形容詞なしの「従うこと」とはなんだろうか?ハイデッガー的にはこれはまず、世人支配への従順であるはずだが國分の場合、そのステップは考察の対象外になっている。


ハイデガーがいう退屈の第三形式「なんとなく退屈だ」がある。それはじつは「わたしは自由だ」ということをわたしに告げているのだ。でまあ自由の実現を「決断」と呼んでいたわけですね。p243
でわたしは、「決断」というものを、『存在と時間』の世人論くらいのとことに戻して自分なりに考えてみた。ところがここに、國分氏とわたしとのあいだにはズレが生じ、うまく説明できなくなってきた。


「「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。」と國分は書くが、決断にファシズムの雰囲気を嗅ぎとりそれをアレルギー的に拒否する戦後民主主義的(?)反応(と同じもの)に、結局のところ國分は陥っているのではないか。


「「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば、第一形式の退屈が現れる。」世界をどこから考え始めるのかを教えるものが哲学であるとすれば、どこから考えるのか、という出発点において國分は誤っている。
前述のように、サラリーマンなら朝7時に起き出勤する(あるいはもっと早く)。これが仕事に「従う」ことであり初期状態である。「遅刻しないように」とか考えると人為的な(疎外された)規則のように思えるが、そうではなく、農民はドイツでも日本でも千年以上前から毎日早くから勤勉に働いてきた。ひとが生きる文化とはそういうことの身体化としてあるのだろう。「退屈」を先にもってきて説明原理にするのは賢いとは思えない。


世人=仕事として生きることが原則であり、それに対する例外として、自由=決断が存在する。

ある決断をする。「決断をしたのだから、その決断した内容をただただ遂行していかなければならない。p301」ここもおかしい。会社にいけなくなり、2,3日あてどのない旅に出る。しかしあきらめて帰ってくれば、上手くいけばまた会社に復職し以前と同じ日常が戻ってくるだけだ。世人=仕事という巨大な慣習力の下にわたしたちが生きているということを國分は無視しているので、分かりにくい。
デフォルトとしての仕事=服従を見ないで、決断を「決断主義」と大げさにした上で否定してみせているだけだ。


「人間は日常の仕事の奴隷になっていた p302」。それはよい。「その仕事は決断によって選び取った」ものだろう、と國分は言う。そうではない。毎朝起きて働くというのが人間の文化であり、類としての人間はそのように自己形成してきたのだ。


「人間は普段、第二形式がもたらす安定と均衡のなかに生きている。p305」そのとおりであり、野原はそれを世人=従属的生き方、と考えるが、國分は認めない。決断をむりやり奴隷に結びつける國分の発想は、説得力がない。


大学の勉強という「退屈」を逃れ、資格試験勉強の奴隷に成るという対比を國分は掲げており、まあそういうことはあるだろう。それはしかし、大学の勉強が自由であり不安であるからであり、退屈という言葉を選ぶ必然性はないと思われる。それに、ハイデガーを読んで論文を書くことも同様に集中力、自己奴隷化が必要なわけであり、例の挙げ方が恣意的と言える。


さて、コジェーヴ がでてきて、批判される。
「決断し、自ら奴隷になる」のがコジェーヴのいう「本来の人間」だ。そうではなく第二形式の退屈を生きるべきだと國分は言うのだが、どうなのだろう。


ハラキリや特攻など「「歴史的価値」にもとずいて遂行される闘争(P319)」は、自由である人間の誇り高さとは無縁だ、とは必ずしも言えないかもしれない。しかし、わたしたちが常に具体的場面に則して考えるべきである。「先の戦争」では命令に従って、多くの残虐行為がなされた。つまり「世人」という習慣が人間であり、そこまではまあ良いとしてもそれをど外れた強度にまで疎外しようとするのが戦争時における国家であり、悪の究極である。(ファシズムが悪ならそれと戦うのは悪ではないという議論はしばらく置く。)
壮大な勘違いをしているのは、「決断」一般を否定してしまう國分の方である、と思われる。


国民国家の理念にもとづいて大戦を引き起こし、自国民たちを戦場で見殺しにしたヨーロッパの国々の社会体制、について、國分は愚劣だと述べる。
国家というものが、日常を切断する権力への幻想において成立しているというならそうかもしれない。


過激派=奴隷になる、ことへの警戒というものが、國分の基本思想のようだ。だが結局、どうなのか? 平凡な理解だが、世人=服従が、ハイデガーや特攻のように国家と同致したときの方がより大きな災厄をもたらした、と歴史から学べるのではないのか?
したがって、世人(第二形式)ではなく、決断=第三形式の方にだけ奴隷になることを、結びつける國分は恣意的でしかない。


習慣の獲得というものを、近代主義がともすれば、軽視、蔑視してきたという批判は正しいだろう。
習慣によって、目に入っていくるものすべてを受け入れるのではなく、そのほとんどを切り捨てるという説明がある。習慣を獲得することにより「考えて対応するという煩雑な過程から解放される」、という。その正しさは一面的でしかない。農民が農地を見る時、そのすべてを深く見た上で不要なものだけ切り捨てているのだ。そこにあるのは有機的自然との交流であり、近代的主客図式による情報摂取ではない。
稲の穂の膨らみ具合を見て取り、それに応じた作業を行う。それは反射的行動のようにも見えるがそうではない。かなりの要素を組み合わせて瞬時に判断した結果結論を出しているのだ。習慣とは考えないですむことではない。より速く考えることに過ぎない。


環境を情報として扱うことが、すでに世界の平板化だ。人間は考えないですむ方向に向かって生きていく、とある。そいういうこともあるかもしれないが、例えば音楽を聴く場合、より深く聴けるようになっていくだろう。またおそらく、例えば農業を続ける場合も、世界と自己はより多次元的に深く交流できるようになり、相互変容していく可能性があるのだろうと思う。


付記:
ハイデガーの決断論批判に関係ある本として、アドルノ『本来性という隠語』がある。難しくて紹介も引用もできないが、ほぼ納得させられた。上記に反映してないけど。

*1:1.21

慰安婦像、合意後に6カ所設置

 日韓両政府が慰安婦問題の最終的解決で合意した2015年12月以降、韓国国外で新たに6カ所に朝鮮半島出身者の慰安婦像・碑が建てられたことが外務省の調査で3日までに判明した。日本側は、合意に反する動きだとして各地域で撤去へ働き掛けを強めているが、歯止めがかからない状況に焦りも広がっている。

 外務省によると、15年末以降に設置された朝鮮半島出身の慰安婦に関する像や碑は、米国が最多で、カリフォルニア州サンフランシスコ市やニューヨーク市など4カ所。ドイツとオーストラリアがそれぞれ1カ所となっている。2018/2/3 17:13
https://this.kiji.is/332428591126742113

慰安婦像・碑を建てることが合意違反?外務省がそう考えているのか?安倍氏個人がそう考えて外務省にゴリ押ししているのではないのか?共同通信は「合意に反する」という理解になんら疑問を持たなかったのか?
おかしいじゃないか。

ドゥテルテ大統領は拒否

 フィリピン政府が、首都マニラに建てられた従軍慰安婦追悼像を撤去してほしいという日本の要求を、「憲法上の表現の自由」を理由に拒否した。日本はフィリピンにとって最大の援助国、かつ米国に次ぐ貿易相手国だ。

 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は16日、現地メディアのインタビューで「被害者追悼像の設置は、私には妨げられない憲法上の権利。最近フィリピンを訪れた日本の野田聖子総務相に、『まだ生存している元慰安婦の女性や家族が、銅像を通して表現したいことを表現する自由を妨げることはできない』と伝えた」と語った。
http://news.livedoor.com/article/detail/14179156/

ちなみに、野田聖子総務相発言を聞いて私は日本の政治状況に絶望した。というのは彼女はポスト安倍候補として、安倍との違いをアピールしなければならない立場であり、現にこの発言に前後して、明治維新150年を強調しすぎることに疑問を呈している。その彼女が「慰安婦像」問題については「違い」アピールを一切しなかったということは、(3年前?)の朝日誤報キャンペーン以後の、わけのわからない「反慰安婦意識」がほとんどの政治家に深く浸透していることを示しているのだろう。
(1.19記す)

何の大義もなくマニラの慰安婦像にケチを付けるな!!

フィリピン大使館にメールした。

「マニラを訪れている自民党の河井総裁外交特別補佐は17日、ドゥテルテ大統領と会談し、日本大使館の近くに慰安婦問題を象徴するフィリピン人女性の像が設置されたことに懸念を示す安倍総理のメッセージを伝えました。」
と報じられました。しかしながら私は一人の日本国民として、安倍首相および自民党の今回の行為に大きな疑問を持つものです。慰安婦問題については、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題として、日本は反省しており、今回の慰安婦像に何ら日本を傷つけるものではありません。安倍首相の特異な感じ方は日本人を代表するものではないことを、大統領にぜひお伝え下さい。

id:bogus-simotukare 曰く

一介のサラリーマンに過ぎない俺が「朝鮮学校無償化除外に反対だ」とブログに書いただけで悪口した

違いますね。
問題はあなたが、関係ない問題まで「朝鮮学校無償化除外に反対かどうか?」という議論に引きつけて「それに反対する人は非である」という、平板な二項対立図式で論争を処理することです。でもって、まったく同じ趣旨の主張を十年も反復する。これを私の言葉で「1bit脳」と言います。yesかnoか、ただその一点だけでものごとを判断することを言います。それが当たっている(というかそうではないと改られないので)シモツカレ氏は怒り続けているのでしょう。それともブログ書きなのに、タネに困っているのでタネには常に飛びつくだけなのか?
いずれにしても、迷惑極まりないストーカーです。

前川氏の朝鮮学校論についてわたしは興味がないし、論評する意志もありません。
朝鮮学校論について論じるなら、私は、萩原遼氏、石丸次郎氏、それから私がどこかに引用した元校長(?)あるいは、明示的にはあまり意見を言ってないかもしれないが金時鐘氏らの意見を参考にして考えるでしょう。わたしはいまは述べませんが。

前川喜平氏について

私も彼を尊敬している。
一つのロールモデルとしての「前川」が日本に広まることを願っている。
というのは、職場で正しいことを発言しようとしても、そのせいでその後何十年も職場で村八分にあると予想されるとすれば、なかなかその勇気はでない。
しかし、60歳過ぎていれば(年金開始まで多少の年数はあろうと)職場で我慢しても数年で終わることであり、勇気を出せるはずだ。つまり60歳過ぎれば、男は(女も)正しいことを発言すべきなのだ。そういったロールモデルが前川氏である。
わたしの場合も、裁判を起こしてみて、いちおう勝利した。
http://666999.info/AYGX/ のとおり。

一旦、大企業や公務員になってしまうと、世論や幹部の意見に真っ向から逆らうことは極度に難しい。それによって会社から疎外されクビになればその後何十年もどうやって生けるだろうか?しかし60歳になり65歳になれば自動的に会社リタイアとなる。その時NPO等自分なりのネットワークがあればクビ
になってもダメージは耐えられる。自由な発言は可能だ。前川氏はそうしたロールモデルを私たちに提供してくれた。私は前川氏とは対極的に一生平公務員として過ごしたが、62歳の時所属していた組織を「職務不利益変更を不服」として、裁判提訴した。その結果クビにはならず、雇用は継続した。
何十年も争うのは大変だが、60歳過ぎて争うのは比較的容易である。自分のことで恐縮だが、民事提訴などだれでも実行できないことはない、というサンプルの一例としてurlも掲げる。