松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

記憶は善、で良いのか?


前田年昭氏が、「歴史修正主義批判の文脈で歴史意識の欠如が問題になるときに、「忘却=悪、記憶=善」というステレオタイプも困ったものだ。」*1と書いていて、とても興味を惹かれた。私は「私たちは忘却を達成した*2」という文章を書いてまさに「忘却」を糾弾しているので、その限りでは「忘却=悪、記憶=善」と主張しているようでもある。ただ私は「記憶=善」と考えているわけでもなく「忘却=悪」を糾弾しようとすると、自己あるいは他者の「記憶」に頼らざるをえないがそれは裁判手続(それもイメージとしては愛した女との情交の日時を探るような隠しておきたい秘密を連続的にあばかれるような公開過程)のようなものであり、苦痛をともなうわりにそれで真実を得られるわけでもない辛い過程である。相手が主張する真っ赤な嘘を否定するためにはそうするしかないのだが、だからといってそれは真実ではなく真実とは微妙に異なった何かしか得られはしない。


「過去の諸事実を知識として知ることが歴史修正主義批判というわけだ。そうだろうか。」と前田は書く。確かに正しい知識と比べれば、彼らは虚偽を主張しているのだが、そこで第一の問題はやはり彼らがなんでそんな主張をするのかという彼らの欲望の所在である。歴史修正主義批判は文字どおり彼らが言っていることを否定できればそれで良いのであり、何が歴史における真実であるかという難しい問に答える必要は必ずしもないのだ。「歴史修正主義が過去の隠蔽だからではなく、現在――より正確には現在のなかに生きる過去――の隠蔽だからだ」と前田が言うとおりである。


「何を記憶、記録するのか、何を記憶、記録しないのか、という土俵」を取り戻すことが大事だろうと前田は言う。中国帰還者連絡会の自己の記憶との闘いを私たちは学び継承していう必要があると私は思う。だがここで「継承」について前田が危惧するように微妙だが、大事な差異が生じうる。つまり中国帰還者連絡会の記憶の闘いにおいて勝ち取られた成果を大事にしていわば聖典化して保存すればそれは敵に対しても武器に成るという考え方。それと、「生身の中国人の肉と血を突き刺した体験を悪夢のように反復せざるをえなかった」中国帰還者連絡会の長い〈闘い〉と同等のものを、どこかでこのふやけた現在の自己のうちに作り出さなければ「継承」ではない、という考え方。この二つだ。


「歴史と社会が変わることについて,こんな思い込みはないだろうか。自覚した人びとがしだいに増え,しかるのちに世の中が変わる,と。先に悟った人,遅れて悟った人,そして(いずれは悟るはずなのに)まだ悟っていない人,時間のあとさきが人の価値を決めるというわけだ」。思想において正解というものがすでにあり、それを自覚した人びとが増えたり減ったりするのが現実過程であるという平板な歴史観。そんな平板な思想を持っている人が多いとは思っていなかったのだが、だから私はそういうひとを「1bit脳」と揶揄して呼んでいたのだが、そうではなくそうした人はとても多いようだ。


従軍慰安婦の問題でも、水曜デモをしている老婦人たちへの尊敬のあまり、彼女たちの主張を聖化し不可侵なものとして利用したいみたいな傾向の方は確かにおられたように思う。主張にはほどんど賛同できるからささいな違和感を口にする必要もないようなものではある。しかしやはり、右翼や朴裕河や熊谷奈緒子からの攻撃の対象になるからやはりこれは大事な論点であり確認しておく必要があるのだ。


河野談話事実認識慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」を確認しその反省を歴史研究、歴史教育を通じて国民に教えていくこと、それを維持できるかどうかが、日本における慰安婦問題の本質であるはずだ。日本国家の確認を国民が承認していくのかどうかという問題だ。日本が韓国にどう向き合うかという問題ではない。
それを彼らは「果たして(日韓の)和解はありうるのか?」という二国間の問題にしてしまう。そうすれば日本の利益は韓国の要求を値切ることのうちにしかなくなる。つまり論点の設定がすべてであるわけだ。
元に戻ると、「記憶=善」というステレオタイプは「(元慰安婦の)記憶=善」という原点への拝跪につながり、それは慰安婦問題を二国間の問題にしてしまうことに自動的につながっていく。だからここは、ミクロレベルの精密さで思考しなければならないのだ。


「(元慰安婦の)記憶=善」というのはとりあえず正しい。しかしそれを直ちに現在の状況に敷衍するのではなく、(元慰安婦の)記憶というものの中にある闘いを追体験する(それは私たちの前に現れた元慰安婦たちだけでなく既に死んだあるいは最初から感知できなかった元慰安婦の体験を求めるという試みを含む)なかで、政治的要求項目としては最低限のものを獲得し、それを相手(日本人)に何度も確認させることが大事だっただろう。


「被害者に寄り添うあまり」論

「「軍による強制連行がなければ日本に責任はない」という主張と、「意に反して自由を奪われた」という「強制性」が問題だという論調。前者は公文書に重きを置くあまり裁判で認定されるなどした証言を考慮しようとしない。後者は、被害者に寄り添うあまり客観的に事実を把握しようという姿勢に欠ける。


熊谷奈緒子さん(国際大学大学院専任講師)の発言から。
http://www.asahi.com/articles/ASGDW760BGDWUTIL01M.html?iref=com_rnavi_arank_nr05 … >後者の立場(例えば吉見義彦)のどこが事実を尊重していないのか、言いがかりでしか無い。被害者の主張も事実に認定については日本の裁判所は認めている、賠償しないと言ってるだけ。


「性奴隷」「20万人」など被害の実態や数について明確な根拠に基づかない事実誤認も見受けられる。>性奴隷のどこが事実誤認なのか?性奴隷という言葉の日本人的(ポルノ脳的)解釈が問題なだけ。20万人は南京の場合と同じ相手のトリヴィアルな弱点をつく戦法にすぎない。 


熊谷氏は、今までの膨大な慰安婦研究において、それだけでは、「客観的に事実を把握しよう」した場合に不足すると考えているのか。現在までの資料で、事実の輪郭については、すでに明確な像を描くことはできる。事実の輪郭について混乱を生んでいるのは旧軍を援護したがる馬鹿だけだ。


不正確な言説を振り回すだけの能力を持つ人物のようだ、熊谷奈緒子氏という人は。 「被害者に寄り添う」ことを物神化することには私は反対してきた。しかし事実認定についてほとんど差異はない。熊谷氏の議論はためにするものでしかない。 

「帝国の慰安婦」書評

「【「帝国の慰安婦」書評】感情の混乱と錯綜:「慰安婦」に対する誤ったふるい分け」
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2014/07/07/233504