松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

私はなぜここにいるのか? (1)

 7/14大阪で「仲良くしようぜ」というパレードがあったので、参加してみた。*1


 私はそのパレードを身近に感じていた。というのは私のツイッター(タイムライン*2)にその呼びかけとかが沢山流れてきたからだ。そもそも私は在日のコミュニティと無縁だが、ツイッターには在日および在日支援者が多い(しかし私と彼らの関係には、敵対的なものも大いに含まれている)。
 ついでに書いておくと、私は在日と無縁というわけでもない。20代の頃私は孤独に耐えかねて大阪文学学校というところに行った。倉橋健一という人の詩のクラスに入った。倉橋健一の昔からの友人で激しい論敵でもあるのが金時鐘という詩人だった。彼は東アジア最大の事件で長く口にすることさえ出来ないタブーとされてきた〈済州島四三事件〉の詩的証言者である。近年、大阪の生野区猪飼野〉で毎年〈済州島四三事件〉追悼式典が開かれるが、それを作っていった力の中心には金時鐘の存在がある。で〈済州島四三事件〉追悼式典は、日本人お断りとは書いていないので二度ほど参加したことがある。しかし追悼式典は、萌芽状態の在日のエスニシティを求心的に確立したいといったベクトルも持つ。在日とは無縁の私が居ていい場所ではない、という感覚を味わうことができる。
 「済州島四三事件」とは、南朝鮮に革命と独立をもたらそうとする勢力と北朝鮮から追い出されてきた反共勢力が激しくぶつかり合い、敗北した前者が後者(とその背後の韓国政府・米軍)に虐殺されていく長い過程である。それがタブーであったのは、その当事者であった反共=韓国政府が前者がむしろ大衆的民主的な広がりをもっていたことを隠蔽しなければならなかったからであろう。〈追悼する〉ことは、虐殺者であった反共勢力を糾弾することを含みつつ、暴力的な南北対立の地平を端的に越えるという二つの課題を乗り越えることで初めて可能になったのだ。
 しかし、生野区猪飼野〉で開催される式典は、戦後60年苦難のなかで日本社会に棲み場所を確保し続けてきた在日たちの自己肯定を、〈追悼〉に重ね合わせることで成立したものと感じられた。私は存在論的な部外者でありここに居るべきではないのだ。

 この感覚は、日の丸が大きく掲げられたすべての式典で在日の人たちが感じる感覚と決して同じではない。しかしそれを理解するためには、この程度の感覚は体験し意味を深めておかなければならないのはいうまでもない。
 
済州島四三〉追悼式典について書くつもりなどなかった、のだけれど思わず長くなってしまった。

 きみはなぜそこにある(いる)のか?きみがそこにいることを誰が許可したのか?神が死んだ以上、この問いに答えることができるものは「国家」しかいない。
 今回だけでなく小さな反原発デモでも無視せずに、在特会の人がたったひとりで日の丸を掲げて沿道に立っていてくれる*3。彼らはなぜそこにいるのか?彼らは自己の存在根拠が脅かされていると感じ、それを守るために、誰に頼まれたわけでもないのにわざわざ沿道に立っているわけである。
 ご苦労さん、と吐き捨てるように言っておけばよい、という気持ちもある。しかし、なぜ彼らはそこにいるのか、不思議である。
 きみはなぜそこにある(いる)のか、哲学者でもないのにこうした問いを発するのは人が不幸である時だ。在特会の人は自分がこの社会に存在することを当たり前だと感じることができないのだろう、その不幸がどこから来るのかはわからないが。彼らは存在論的に不遇であるので、なんらかの拠り所を求める、それが日の丸なのだろう。「朝鮮人は朝鮮に帰れ」との発語なのだろう。自己の存在論的不遇の原因を外国人の存在に求めてしまう、これは錯誤だがありふれたものなのかもしれない。
 一方、在日の側はこれに過剰に反応せざるをえない。国家の論理では彼らは外国人であり、きみはなぜそこにある(いる)のか?という本来答えることができない問いに答えなければ存在を許されないかのような切迫に、在特会がいなくても常にさらされている存在だからだ。
 おそらく、このような存在論的な語りえない領域でのエネルギーが動いたために、「仲良くしようぜ」というパレードは企画され、実施され、成功した。そう言っていいように思う。
 
 
 

*1:これについてジャーナリストが分かりやすくまとめたものとして下記がある。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36440 

*2:ツイッターというのは自分がフォローした人の呟きだけがひたすら並ぶ、つまり人によって見ている世界がまったく違う。それをタイムライン=TLという。

*3:場合が多い