松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『フェミニズムの政治学』を読む(1)

429頁もある本だが、この本は私見では「資本制と家事労働」と並ぶ名著なので、簡単に紹介したい。*1


基本テーマは、公私二元論批判である。つまり「自律的主体に基ずく」社会理論(政治思想)の批判である。
「なぜ、多くを他者に依存しないと生きていけない存在だけでなく、その者たちの必要を満たすための活動をしている者たちまでもが、国家の端緒から排除されてしまうのだろうか。p4」とある。
私たちの社会はプラトン以来の公私二元論に囚われてきたが、それは、「依存」とか「傷つきやすさ」といった存在のあり方を忌避してきたとも言える。しかし、誰もが無力な赤子として生まれ育てられる事を考えるとき、そのような存在様式を無視する認識格子は問い直されるべきであろう。


「第一部 リベラリズムと依存の抑圧」から読んでいこう。
(わたし)を女と呼ぶことにより、平和でドメスティックな本質(自然)を持つ存在であるとみなす社会風潮に全力で抗うことが、フェミニズムである。

ルソーは自己意識の同一性に司られた普遍的理性の下に、公的領域における事象を統制・包摂しようとした。市民たちは、自分たちの個別のニーズや関心、欲望や感情を互いにいっさい配慮しない、そのことによって共通した国民としての意識を手に入れるのだ。p25
自由で普遍的とされる「公的領域」というものの性質は、そのようにつねにすでに規定されてしまっている。


わたしたちは国家において、一律の法の下に包摂され、平等な人格として扱ってもらう、それは国家が私を自律的な主体と想定する、という前提において成立している。であるからして、私即ち主体というものは、意志に対して自ら服従するものでなければならない、そして国家の主権に服従するものでなければならない。p131

市民は法に従っていればそれだけで立派な市民と認められる。しかし依存する存在(例えば赤子)が近くにいれば、女は法に従うより先にそれに拘束される。であるにも関わらず、その事情は国家によって斟酌されない。

 社会を構想する上で目的でもあり、その前提でもあるともみなされてきた自律的主体に想定されてきた自由とは、情念や傾向性をはじめ、自らの身体でさえも他者化してしまい、それに対して主体であるわたしが命令することこそが自由だと考える、「堅い意志」をもつ主意主義的な自由であった。p133
なぜ自由であるために、わたしたちは多くのことを忘れたり、不問に付したりしなければならないのだろうか。

わたしたちは、人格として認められるために「主体」になる必要はない。

このような「主体」から出発してはならないと、説くのがジュディス・バトラーである。

ある意味で主体とは、排除と差異化、そしておそらくは抑圧を通じて構成されている。だが、こうしたことは、その後、自律性の効果によって隠蔽され、見えなくされてしまっている。この意味で、自律性とは、かって否認された依存の論理的帰結である。すなわち、自律的主体とは、主体を構成する裂け目/分岐点/切断を隠蔽する限りにおいて、主体の自律性という幻想を保つことができるのである。p129

言い換えれば、「〈わたし〉が内的に抱え込んでいる複雑さ、ときにそれぞれが両立しないかのように見える複数の自己同定化の交錯状態が排除され、抑圧される」そのことに対する批判である。
(男性の前で)(制度的言説にそって語ろうする場合に)しばしば(わたし)は、自分の一面だけを主体の主張として押し出してしまう、そのとき切り捨てられた破片の方を忘却してはならない、と言っているわけだ。


バトラーは主体というものをすべて否定するわけではない。


主張していくことが常に一定の主体のあり方(自律的主体)にはまり込んでいくことと同値であるのは、欧米においてであり、日本ではそれは当てはまらないかもしれない。日本では主張すればするほど、主体を消去しようとする圧力が強まる(男性であってすら)。したがって、主張を継続することで、そこに自己の断面、社会とある角度で交差した自己の様々な断片を集積することができる。
日本においては「主体の自律性という幻想」に相当するのは「社会の包摂性という幻想」であるだろう。社会とある角度で交差した自己の様々な断片を、再び社会に突き返すことで、私たちは「社会の包摂性という幻想」と闘っていくことができるのではないか。


「敵でも味方でもない、ある圧倒的な力によって問題提起の正しさが弯曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚」*2とは、自分の生活感覚からくる「正しさ」に対して、当局に対して権利主張していくその言説空間が権力によって歪められているということの発見をまず指す。しかしそれだけでなく、その湾曲には人類史発生以来の湾曲が孕まれているわけである。したがって、このような感覚を忘れることがなければ、世界に向き合い闘い続けることができる。

(続き)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20130325
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20130330

*1:フェミニズムの政治学--ケアの倫理をグローバル社会へ」 岡野八代 みすず書房 2012年

*2:私が常に想起する松下昇のことばだが。http://666999.info/matu/data/jokyo.html