松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

2008年3月、ラサで起こったこと

 ツェリン・オーセル『チベットの秘密』のなかの一編のエッセイについて書きたい。
 「いつも「サプサプチェ」という声が耳元に響いている」*1という文章から、2008年3月にチベットのラサで起こった「騒乱」事件の一面について紹介したい。*2


オーセルは証言者を求めていた。幸いに偶然WDと会うことができた。
…あの場所で、あの時、期せずして出会ったことは、あたかも私に特別な体験を聞かせるためのようでした。…


…二度目に会った時は、うまく行かず、私たちはすぐに離れました。尾行されていたからです。…


…その日の午後、私たちは、怪しい気配があるかどうか注意できるように、窓の外や入口を見わたせる席を選んで座りました。それは椅子の背もたれが高いので、人に見られにくい席でした。周囲はお客が少なく、トランプをしたり、雑談をしているだけで、無関心でした。…
話を聞くことも容易ではないのだ。


WDは話し始める。

 話は三月十日から始めなければならない。その日の午後五時頃、…友人がやってきて、ジョカン広場で事件が起きたぞ、と言った。…


ぼくたちが行くと、八人が警察の車に入れられるのを目にした。四人がクショ〔上人様〕で、他の四人はアムドかカムのチべット人で、とても若い青年だった。その前に既に数入のクショが連行されたそうだ。さすがパルコルの派出所の警官で、その仕打ちはとてもひどかった。周囲にはたくさん集まっていて、プゥパ〔チベット人〕がこっそりと「ニンジェ、ニンジェ〔かわいそうに〕」と言っていた。幾人かのアマラ〔お母さん〕は口をつぐんで泣いていた。ぼくの友人が携帯電話で写真を撮ろうとしたが、私服警官にグイッと没収された。ほんとうに恐ろしかった。


 WBが見たのは、8人が捕らえられたという事、非常に手荒く扱われて*3。ジョカン広場は例えばこちらhttp://homepage2.nifty.com/tabifoto/SZ/12/LS2.htm に写真がある。ジョカン寺=大昭寺は7世紀中頃に建てられた、仏教信徒が憧れる巡礼の聖地。


ただ文脈なしにそれを突然提示されても読者はとまどうだろう。
「3月10日、チベット・ラサのデプン寺の僧侶ら数百人が、中国による支配に抗議するデモ行進を行なった。中国当局催涙弾などを用いてこれを鎮圧。少なくとも70名程度が拘束されたと報じられている。*4
という事件があって僧侶たちが次々逮捕されていった。その逮捕の一コマをこのWB氏が目撃したということだ。この抵抗運動は拡大していって、チベット現代史最大の事件の一つとなる。しかし、中国当局が真相を全面的に隠蔽、歪曲したために、事件の真実はいまだ明らかになっていない。
この事件を知るための貴重なインタビューがこれであるというわけだ。ちょっとゆっくり話を聞いてみよう。

 翌日、パルコルでは私服警官が急に増えた。女性も三、四十人いた。髪が短くて、みなギャミ〔漢人〕だった。プゥパたちがおしゃべりしているのを見ると近づいてきて、耳をすまして聞いていた。チベット語が分かるかどうかは知らないが、プゥパは彼女たちをビクビク恐れていた。
 彼女たちは昼も晩も広場で弁当を食べ、送り迎えの専用車があって、日が沈む頃にようやくいなくなった。プゥパはみんな彼女たちは私服だと分かっていて、お互いに注意し合っていた。警察はとてもたくさんいて、厳重な警備体制でパトロールをしていた。デプン寺とセラ寺のクショがデモ行進したが、たくさんの武装警察によって追い払われたそうだ。ジョカン寺〔大昭寺〕とラモチエ寺〔小昭寺〕は閉鎖された。

突然、ラサ中心部が戒厳状態になった。

十四日のこと(WBの話、続き)

 十四日のことは、はっきりと億えている。
ちょうど午前十一時二十分、ぼくは離れようとした……その前に、大勢の人たちがグヒヒーと大声で叫んでいた……*5


ぼくが数人の友人といっしょにいつものようにラモチェ寺を通りかかった時、そこでは既に事件が起きていた。大勢のプゥパが大声で叫びながら武装警察に投石していた。ぼくたちは驚いて呆然とした。そばにいた人が、何日もラモチェの入口に警察の車が停まっていて、巡礼者がお寺に入れなかったので、さっき中からお坊さんたちが突進してきて車をひっくり返した、と言った。警察はすぐに電話で武装警察を呼び、盾や警棒でクショを殴りつけた。町のプゥパは見るに見かねて抗議デモを起こした……多くのプゥパは若くて、ぼろの服をを着て、石を投げながら叫んでいた。「ツァンパ〔チベット人の主食〕を食べる者は出てこい!』。ある屋台の男が出て加わろうとしたが、女房が強く引き止めて、泣きながら『行かないで』と言っていた。たくさんの女の子がぼくたちに呼びかけた。『お兄さん、プゥパですか。プゥパなら来て』。でも、ぼくたちが加わらないのを見ると、地面にツバを吐いて『恥知らず。恥知らず』*6と軽蔑した。本当にとても辛かったが、参加する勇気がなくて、そばで見ているだけだった。友人の一人は、走って行き、石を投げて、すぐに戻ってきた。


投げた石は近くの建物の破片で、二人の武装警官が頭にけがをして血を流した。


…「ちょっと待って」オーセルはまた話をさえぎる。「組織的・計画的なものでしたか?〔当局はそのように主張〕」WBは「違うと思う。」と答える。

 刀を持っている者もいたけれど、おかしいことに、チベットの刀ではなく、長い刀だった。どこから持ってきたのか分からない。大勢がカタ〔敬意を表すための薄いスカーフ状の白い絹布〕を振りかざしていた。近くの店から奪ったのかもしれない。どうせ店にはカタがたくさんあるから。その後、みんなはラモチェからトムセーカ*7に流れていった。途中でギャミやカチェ*8の店がたくさん壊された。トムセーカンでは一部の店が放火され、ギャミは逃げ出した。カチェも〔回族がかぶる〕白い帽子をふところに入れて逃げた。でも、不思議なことに、警察もいなくなっていた。警察はどうして取り締まらなかったのだろう?


チベット人の怒りは暴動のような形になる(店がたくさん壊される)。
そのとき警察はそこにいなかった。おそらく近くには他地域から動員された人を含め多数の警官がいたはずなのに。当局が意図的に暴動を放置した、あとで厳しく報復するために、といったことがあったのかどうか。この〈疑問〉がこの事件を見るときの一つの焦点である。

 最後のところを、WDは独り言のように語った。
 「でも、パルコルー帯には至る所に監視カメラが設置されています。みんな知らなかったのかしら?」
 「知っているとも。みんな監視カメラを知っているけれど、恐れていないようだった」
 WDはしばらく口を閉ざし、ためらいながら、やっと語った。
「民族のためだ。ほんとうにすばらしかった」
 これは彼自身の言葉です。とても印象深いものでした。


いままで忍従しつづけて来た市民(チベット人)たちは、その時が来たとしても、「監視カメラ」は有効であり続け、将来を冷静に見通すなら反乱は割に合わないことを知っていた。にもかかわらず、彼らはその時別の動機(倫理)に身を委ねることを自身に許した。これは単に一時的大衆的な熱狂ではない。日常を支配する倫理は常に既に権力によって大きく弯曲(歪曲)しているものなのにそれは気づかれないようになっている。日常とは別の原理がそのとき登場したことを、権力は「暴力」といって非難する。そして権力に批判的な多くのインテリも暴力にだけは反対することになっている。
したがって、市民の健全な抗議行動は、暴力行為〜暴動であったとされ、つぎにそれは批判されるべきものとなるわけだ。
「民族のためだ。」とWBは言っている。これは、中国当局が国家の論理から理解する、「民族=独立のため」とはまったく別の意味であることを理解しなければならない。
チベット人としてあるいは人間として、世界のなかに存在する私が、宇宙のなかで素直に立ち上がることを肯定してよいとする覚醒がそこにあっただけだ。それは政治的であることを免れないが、それは第一義的な事ではない。

 ぼくは後ろの方で群衆についていった。入はどんどん増えていって、トムセーカンからパルコルに向かった。だいたい百人位だった。アムド、カム、ラサのチベット人で、クショもいた。パルコルを二度回りながら大声で叫んだ。「ギェルワ・リンポチェ・クツェ・ティロ・テンパルショク〔ダライ・ラマのご長寿を祈る〕』、『プウ・ランツェン〔チベット独立〕』……回っている時、ギャミやカチュの商店が壊された。絹や綿の布が放り出されて、色鮮やかに地面に広がった。ジョカン寺に面したパルコルの派出所も放火されたが、被害はあまりなかった。(略)

そして、三時、あるいは三時を少し過ぎていたかもしれないが、黒い服を着て、マスクをかぶって目だけを出している者が来た。やつらは銃を持っていた!発砲したんだ!
特殊警察だ!飛虎隊のような。
三、四十人位だったろう。その時、ぼくはパルコル北街の入口にいた。そして、特殊警察はジョカン広場に急ぎ、デモ行進は催涙弾で追い払われた。まず前列にいた者が止められて連行された。続いて、やつらはすぐ後ろの者を射殺した。ぼくは大勢の人たちといっしょに慌ててパルコルの裏に逃げた。でも、パルコル北街の入口から遠くない所だった。

あそこで、少女が石ころを拾って投げようとしたら、特殊警察に射殺されたんだ。弾丸は喉を貫通して、彼女はドサッと倒れた。ぼくは十数メートルか二〇メートル位離れた所にいて、はっきりと目撃した。たくさんの人が目撃した。恐ろしかった・……彼女は十七、八歳位だった
 その少女は地面に倒れて痙単して、血が流れていた。特殊警察の車がすぐにやって来た。トヨタのようで、四五〇〇cc位の、濃い色の車だった。その車は少女の前に停車し、二人の特殊警察官が飛び出して、少女の死体を単に投げこんだ。
そして、車は少し前に進み、それからバックした。とても不思議なことだが、こうして一度往復しただけで、地面の血の跡がなくなったんだ。血痕は全く見えなくなってしまった。
…清掃車のように、地面の血の跡はきれいに消されたんだ。


…この少女の他には、死者は目撃しなかった。

「前列にいた者が止められて連行された。続いて、やつらはすぐ後ろの者を射殺した。」百歩譲って、国家は秩序維持のために暴力的デモの先頭に立つ者を射殺せざるをえない事もあるかもしれない。しかしこの場合国家は前列にいた者を連行している、つまり国家は状況を完全にコントロールしている。にもかかわらず「後ろの者を射殺した。」これは国家による端的な殺人だ、と言いきれる。

ジョカン寺とパルコル(八廊街)の地図

不思議なのは

WDは続けました。

 でも、パルコルで食堂を開いている友人は、屋上から特殊警察がパルコルの中で発砲し、たくさんの人が死んだのを目撃した。ところが、不思議なのは、特殊警察はパルコルでしか取り締まらず、他は放置していたようなんだ。
その時、ぼくは少女の死体が警察の車で運ばれていったのを見て、他の人たちと逃げ出した。ぼくはまっしぐらにマキェアマに逃げ、そこで角を曲がり、路地を横切った。両側の商店の多くは壊されていて、めちゃくちゃに散らかっていた。知っているだろう。そこは回族が一番多い所で、近くにギェル・ラカン〔清真寺とも表記されるモスク〕がある。プゥパが車に放火しているのを目撃した。ギェル・ラカンの前にあった三台の車と一台のオートバイが炎上していた。ぼくは足を止めずに群衆の中を突っ切った。
とても高い石の門をくぐると、自治区公安庁だった。さらに不思議なことに、公安庁の入口の前に十数人の警官がいたのに、ただ成り行きを見ているだけだった。ところが、大通りを一つ隔てただけで、プゥパ風の者たちが破壊したり、放火していたんだ。カチェの牛肉店が二つ破壊され、七台の車が焼かれた。その後、テレビで繰り返し放送された場面だ。しかし、警察はそれを放置していた。自分たちとは無関係のようだった。野次馬も多くて、大通りの沿道に立って議論したりして、まるで芝居を観ているようだった。

今から思えば、本当に不思議だ。大通りを一つ隔てただけで、その両側は別世界のようだった。ぼくは今でもよく分からない。どうしてパルコルの中では特殊警察が発砲して人を殺しているのに、パルコルの外の警官は破壊や放火を放置していたのだろうか?そこには何か秘密が隠されているのだろうか?

恐怖

アッという間に戦車が三台も江蘇路から現れて、速度を保ちながらリンコル東路へ向かってきた。戦車の上の兵士はみな銃を持っていた。

戦車が何をしたのか、よく分からない。ぼくはただ逃げ回っていたから。それで友人の家に逃げ込んだ。友人も外から帰ったばかりだった。ぼくたちは恐ろしくて、酒を飲んで落ち着こうとした。…友人の家には青海省のチャン*9が数本あるだけだった。その後、別の友人が二人やって来てぼくたちは一本また一本と飲み干した。…


深夜、三人は家に帰ろうとする。

こうして、ぼくら三人はまっすぐに江蘇東路の交差点に行ったが、そこに着いたらびっくりして声が出なかった。酔いもさめた。
 四、五十人の兵士が自動小銃やあおの電気ショック棒を持っていたんだ。ぼくたちは身分証を出すように命令された。幸い、ぼくたちは財布に身分証を入れていた。それで、兵士は『あっちへ行け』と怒鳴った。ところが、一人の友人が『おれたちは身分証を持っているのに、何で怒られるんだ?』と余計なことを言った。これでお終いだ。二人の兵士が飛びかかり、腕をつかみ、頭や顔をボカスカ殴った。ぼくも殴られて目が腫れあがった。その時は失明したかと思った。
 兵士に蹴られたり、怒鳴られたりして……派出所に連れて行かれた。(略)

男の子が兵士に石を

三人はなんとか、WDの部屋にたどり着く。

夜が明け、太陽が出た。ぼくは食べ物や飲み物やたばこを買いに出かけた。しかし、家を出たとたんに後悔した。なぜなら、町中に兵士があふれていて、自動小銃やつるはしの柄を持っていた。ぼくは戻ろうと考えたが、十メートル位離れた所に男の子がいた。七、八歳位だったが、何と兵士に石を投げつけた。すぐさま催涙弾を一発撃たれて、瞬く間に、みんなあちこち逃げ回った。ぼくはもう少しで家に帰れなくなるところだった。それでもう外にでる勇気はなくなった。

まるまる四日四晩、一度もカーテンを開けず、友人と部屋に隠れて、音をとても小さくしてテレビを観たり、寝たりしていた。初めは三人で雑談していたけれど、その後は話すことも少なくなり、それぞれ考え事をしていた。昼間、たまにカーテンの端を上げて外をのぞいたけれど、いつでも兵士しか見えなかった。一生にあれだけたくさんの鉄かぶとや銃を観ることなんてないよ。日が暮れても、電灯はつけられないし、テレビも観られなかった。真っ暗な中に座り込んで、ちょっとした音も出せなかった。ぺこぺこのおなかが鳴るだけだった……


恐怖はいつまでも続く。
二〇日ほど経って、WDはラサを出ることにする。
駅までの2kmで、銃や警棒を持つ兵士に7回も検問される。

乗車して、まだ一息もつかないうちに十数人の警官がやって来た。あれだけたくさんで囲んで、ぼく一人を検問したんだ。列車はギャミであふれ返っていたのに、全然調べず、ぼくのだけ、荷物をめちゃめちゃに引っくり返して、携帯もアルバムも入念にチェックした。ぼくはからだが震えるほど腹が立って、爆発する寸前だった。

『サプサプチェ』という声

「幸いに爆発しないで良かったわ」とオーセルは心から言う。

実はとても後悔している。ずっと後悔している。この目であの少女が撃ち殺されるのを見てから、ずっと後悔しているんだ。でも、ぼくだって分かる。いくら後悔しても、何かできるわけじゃない。
だって、ぼくの耳元では、いつも『サプサプチェ』という声が耳元に響いているんだ。

ここでWDは証言を終える。


彼が最後に言ったサプサプチェ(本当に気をつけて)というありふれた言葉は、オーセルに突き刺さる。

彼が「サプサプチェ」と繰り返した時、このアムドなまりのチベット語の三つの音節は、太鼓の二打ちとチベット・シンバルの一打ちのように私の耳元で炸裂し、心の中に深く響き渡りました。私は「サプサプチェ」が一種の内的なパスワードになり、密かに言い伝えられていると言いました。それは、まるで顔を覆うマスク、手にするパラソル、あるいは深くかぶる帽子のふちのように、憤怒や恐怖が一瞬ひらめく表情を隠すためです。

彼の存在はすでに、恐怖を越える憤怒ではち切れようとしている。その破裂をなんとか抑え続ける魔法の言葉が「サプサプチェ」だ。そういう風に理解してよいだろう。


さて一編の文章から長すぎる(1/3弱)引用をしてしまった。
チベットの若者はなんだって、あんなに次々と焼身自殺し続けるのか?気でも狂ったのか?と世界中の人はいぶかしく思っている。
しかし当然ながら、彼らは愚かなわけでも狂気に囚われているわけでもない。えげつない恐怖と抑圧を掛けつづけられることの持続にどうしても耐えられなくなっただけだ。
彼らを狂気と呼んだり、あざけったりする権利は誰にもない。そうではなく私たちは、中国当局に人権弾圧を止めるべく声を上げていくべきだ。

*1:サプサプチェ、漢語の音訳で瑟瑟其。本当に気をつけて、という意味

*2:p89〜105 劉燕子編訳 ツェリン・オーセル王力雄『チベットの秘密』集広舎

*3:註によると、パルコルの派出所は87年9月の蜂起の時に焼き討ちされたので、警官も強硬派が多いとのことだ。

*4:http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2008/03/70_a742.html

*5:「私は思わず彼の話をさえぎりました。「このような叫び声は、プゥパでも、草原のプゥパだけしかできません。都市のプゥパはもう声を出せなくなっています」WDはうなずきました。「そう。まさにそのとおりだ。」」p92同書

*6:ゴツァ ゴツァ、と振り仮名がつけてある

*7:ラサ随一の小売り・卸売地域 平和なトムセーカンの写真→http://www.kaze-travel.co.jp/lhasa20100211.html

*8:チベット回族

*9:裸麦を原料とした酸味のあるチベットどぶろく:同書割注