松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

賀川豊彦の栄光と悲惨

というわけで、賀川豊彦なのだが、


この人をどう評価するかは、大きな問題を孕んでいると感じた。昨日、いくつかのブログを見た印象で語ってしまうが。

賀川豊彦(1888〜1960)は、1909年(明治42)、21歳の時に神戸の貧民窟(スラム)に入り、キリスト者として貧しい人々のために生涯を捧げる決意をした。以後、労働運動・農民運動・無産政党運動・消費組合(生協)運動・平和運動など幅広い社会運動を展開したことから、のちに「社会運動の父」と呼ばれた。また「貧民窟の聖者」として、その名は国内のみならず海外にも聞こえ、欧米では1930年代を「カガワ・ガンジー・シュバイツアー」三人の時代と呼んだという。
http://www.hokuriku-u.ac.jp/ieas/column/21.html

賀川の国民的影響力---戦後、首相になっていたかもしれない
 季刊雑誌『at』にある倉橋正直氏(元愛知県立大学教授)の記事が、この点に触れています。このことは、私もかつて耳にしたことはありましたが、ほんとだったのですね。

 戦後アメリカは、左翼以外のリーダーで誰を国のトップにしたらよいか探していたそうです。韓国では李承晩が有名ですが、これはアメリカが大統領の地位に据えたらしいです。そいう意味で、賀川豊彦は、左翼でもなく、国民的人気もあり、アメリカでも知られていてよいことづくめ。しかし、そうはならなかった。
http://amendo.exblog.jp/11076362/

神は最微者のなかに存す

「今日の教会には一向に行きたい気がしない。感傷的(センチメンタル)な連中のみが徒に多くて、少しも心を引きつけられない」
 

「見よ、神は最微者のなかに存す。神は監獄の囚人の中に、塵箱の中に座る不良少年の中に、門前に食を乞う乞食(原文ママ)の中に、施療所に群がる患者の中に、無料職業紹介所の前に立ち並ぶ失業者の中に、誠の神はいるのではないか」
http://amendo.exblog.jp/10967311/

賀川豊彦の謝罪

1931年の満州事変以降、あの孫文の「叱責」が、ますます現実のものとなる事態に心を痛めていた賀川は、1934年2月、フィリピン伝道のとき、ルソン海上で次のような一文を記した。

私は日本を愛しているのと同じように、中国を愛しています。さらに、私は中国に平和の日が早く来るように祈り続けてきました。日本軍のあちこちでのいやがらせで、 私は異常なほどに恥じました。ところが、中国の方々は日本がどんなに凶暴だったにもかかわらず、私の本を翻訳してくれました。私は中国の寛容さに驚かずにはいられませんでした。例え私が日本の替わりに百万回謝罪しても、日本の罪を謝りきれないでしょう。… (省略)


孔子墨子を生み出した国民の皆様よ、お許しください。…(省略)


現在私は謝罪することしかほかに何にも考えられません。…(省略) 

これは賀川著『愛の科学』の中国語版(34年6月刊行)のために書き下ろされた「著者新序」の一節であった。
http://www.hokuriku-u.ac.jp/ieas/column/21.html

賀川豊彦は偉人だった!
そう考える。

満州基督教開拓村事業

賀川豊彦が手がけた数多い事業の一つに、満州基督教開拓村事業があります。
戦前、国策として大々的に展開された満州開拓移民事業の一環として、キリスト教界を挙げて基督教開拓村事業が実施されました。そして賀川はこの事業の提唱者として、また開拓村委員会の委員長としてその推進に大きな役割を果したのでした。事業そのものは、日本基督教聯盟が主体となり、それを日本基督教団が引き継ぐ形となりましたが、それを担った指導者たち、さらに実際に開拓団に参加した人々の多くは、賀川から直接・間接の影響を受けた人々でありました。


結果として、長嶺子基督教開拓村(団長・堀井順次)、太平鎮基督教開拓村(団長・室野玄一)の二つの開拓村が作られ、これに参加した人々は、81 世帯、216名に及びます。そのうち生存・帰国が確認されている人々は 116 名、死亡 53 名、不詳 47名という記録が残されています。この事実からだけでも、この基督教開拓村事業の問題の深刻さをうかがい知ることが出来るでしょう。


しかしこの満州基督教開拓村事業の事実は、戦後ほとんど公けにされて来ませんでした。それはキリスト教界の戦争責任、国策協力の実態を明らかにすることでありましたし、なにより事柄の深刻さが、関係者の口を重くさせたこともあったようです。そもそも賀川自身が、戦後、この基督教開拓村事業について語ることはついにありませんでした。
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1938年5月〜6月      満州伝道、新京協和会本部で甘粕正彦、武藤富男らと座談
1940年5月〜6月      満州伝道
1942年8月〜9月      満州伝道

といった経過を経つつ、賀川は満州基督教開拓村事業に全身でのめり込んで行く。
そしてそれは無残な失敗に終わった。
それをどう考えるか?


大東亜戦争期において、「偉大さ」は偉大さにおいて、大東亜戦争に全身でのめり込んでいく。賀川だけでなく、すべての偉人がそうだ。*1
では大東亜戦争は正しく、東京裁判は間違っていたのか。そうではない。夢から覚めてみるとき、満州や朝鮮はいくら拡大解釈をしようと日本固有の領土でないことは明白で、満州開拓も満州伝道もまあ侵略であったことはひていできない。すべきではない。
では、賀川は偉人ではないのか? 私はそうは思わない。


(もちろん、「賀川自身が、戦後、この基督教開拓村事業について語ることはついになかった」は、論外であり、糾弾以外にない。)

メモ:満州基督教開拓村関連

*1:あえて言い切っておく。