松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「原子力発電所稼働の是非は市民自身が決めるべき」か?

いまその問いを掲げることが正しいのか、というと疑問だ。
いま、つまり311以後、第一に問われるべきは、事故の責任及び善後策をどう明らかにしていくのか、ということである。
原子力安全・保安院、あるいは原子力安全委員会といった機関はその任を果たしえず、かえって「原子力村」の一部として、現状の隠蔽、放射能の危険性を低く見積もるという強い傾向、を見せつづけてきた。
国(経済産業省、首相)そしてさらには、司法すら、このような責任追求回避に加担する傾向に違反していない。


私たちの民主主義は機能していない。
どうすればよいのだろう?

 本来、原発の問題は、純粋に技術な視点から安全性と経済性を評価し、その上で広く世論の声を集めて今後の方針を決めていくべきものです。ところが日本では、原子力のエネルギー利用を「国策」として官民一体で推進し、批判の声を抑えこんできたため、原発の是非はきわめて政治色の強い問題になってしまいました。そうした中で原子力行政の情報公開はすすまず、その一方で、電力会社による「原子力発電は安全でクリーン」という原発推進のメッセージばかりがマスメディアを通じて大量に発信されるという状況がつくられてきました。
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/genpatu.htm


原子力発電所稼働の是非の問題は、第一に原発推進主体の問題である。巨大な事故を起こしたのにかかわらず、事故の責任追求をする主体を形成できなかった。市民への放射能被害を最小限に止めるための善後策を決定できなかった。「原子力村」を解体に追い込むどころか一矢を報いることすらできていない状況。戦犯に原子力発電所稼働を任せることはできない。


原発なしで電力供給がまかなえるかどうか?というのは虚偽の問いであり、第一の問いの後で考えればよいことだ。

無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体と

原発闘争は、たんに、虚偽にみちた経済産業省などの機構や東電関係者たちだけを批判してきたのではない。もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体と格闘してきたのである。これまでのあらゆる反原発運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと。反原発闘争の個々の参加者、政治党派の思い込みとは別の位相でこの方向性は存在し続けている。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%97%98%E4%BA%89 松下昇氏の大学闘争論のもじり。