松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「反原発デモにおける日の丸・君が代」問題


東京に引き続き、大阪でも「反原発デモにおける日の丸・君が代」が問題になっています。丁寧な概要が下記にあります。感謝とともにリンクしておきます。
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91?fm=rss
上記写真はそのデモへの参加者が作ったもの。(作家モブ・ノリオさんが作成し掲示してたもの)


「日の丸・君が代」問題は反対派内部でも感情的対立の種になりやすい話題ですので、文体に気をつけて書いていきたいと思います。

「日の丸・君が代」問題とは何か?

私たちの国家はステートとしては1946年(昭和21年)11月3日に公布された戦後憲法に基礎を置いています。
憲法1条には天皇の規定があります。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」国家の最高権威が主権ですが、この文章は本当の権威がどちらにあるのか必ずしも判明でないという致命的欠陥があります。「主権は国民にあり、天皇は飾りだ」という主流派の感覚のなかでも、飾りであっても天皇は大事にすべきだという人と「主権は国民にある」というテーゼを百%貫徹させるべきであり政治的国家的存在としての天皇は否定されているという人がいます。
意見の対立のなかで、憲法改正を掲げる自由民主党だけがもっぱら政権を担当しながら憲法改正はしない、というねじれた状態が、〈国家の基礎〉において持続するというのが、私たちの国家でした。


1999年(平成11年)8月13日に公布・即日施行された国旗国歌法

第一条  国旗は、日章旗とする。2  日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。第二条  国歌は、君が代とする。2  君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

と規定しています。
そもそも法律の1条には普通、法律の目的とその重要性が明記されます。*1
国旗国歌は当然国民の一体感を確認しそれをもって国家の未来を切り開くためのものでありましょうが、そのような文言は一切この法律にはありません。戦後の長い経過のなかで、この法律は国民に統合ではなく分断をもたらすものであることは自明であったから、書けなかったのでしょうか。


それに先立つ長い間、国旗国歌は学校において姑息に「強制される」ものとして存在しました。何の法的根拠もなく。
最初に学習指導要領に基づく指導を行う必要がある。→反対派が異論を唱える。→国旗国歌に法的根拠がない。→法律を作ろう。といった流れによって作らざるを得なかったものがこの国旗国歌法でした。*2

『一九五八年に告示された学習指導要領のなかで、はじめて、「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代をせい唱させることが望ましい」という規定が登場した。

一九八五年に、文部省は、「入学式及び卒業式において、国旗の掲揚や国家の斉唱を行なわない学校があるので、その適切な取扱いについて徹底すること」という通知を各自治体の教育委員会委員長宛に出す。

一九八九年に告示された学習指導要領では、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とされた。
http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20110531/1306805187#c1306900138

学習指導要領において日の丸君が代が「望ましい」ものとして登場するのは、法律ができる99年を40年間遡る58年においてである。つまりこの40年間の学習指導要領は法的根拠の無い、単なる官僚の趣味である事になる。

 ウ(ウ)「国家間の相互の主権の尊重と協力」との関連で、国旗及び国歌の意義並びにそれらを相互に尊重することが国際的な儀礼であることを理解させ、それらを尊重する態度を育てるよう配慮すること。
 3 入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。(中学校の項目)*3
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/02zesei/sankou/kokkikokka.htm

官僚と安部元首相のような右翼イデオロジストの違いは、愛国、国粋から演えきするのではなく「国際的な儀礼」などというものからもってくる所である。
「外国のそれを尊重すべきだからわが国のそれも尊重すべき」なんて論理は、まったく信用できない。例えば「それが常識だからという理由で妻を愛する人」は人間的に信用できない。こうした嘘っぽい言説を教育の場で発すること自体が有害だと思うが。


戦後における日の丸君が代とは、このように何の根拠もない「官僚の趣味」であった。という結論を得ることができる。
でそれを、「反新憲法、反民主主義を指向する保守政権による〈天皇を中心にした神の国〉なる「君主制」への「国家意思」が、そこに滲み出ている(id:tari-G) http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20110531/1306805187#c1306907098」と一般に左翼は解釈する。
しかしそれは解釈しすぎなのだ。
そこにあるのは単なる〈天皇を中心にした神の国への郷愁〉でしかなく、「意思」などではない。


君が代」強制は、現在の国家体制を積極的に受容する事を強制しているのか、それとも国家体制を戦前的なものに変更しようとする意志においてなされているのか。
私は明らかに前者であると考える。

(2011.5.30、最高裁は)公立学校の卒業式などでの校長の命令を、思想・良心の自由を保障した憲法19条には違反せず、不起立行為を理由とした教育委員会の処分を妥当とするものである。そこでは、起立斉唱行為を「慣例上の儀礼的な所作」と位置づけ「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえ」ないとした。
http://www.asyura2.com/11/senkyo115/msg/474.html

日本における思想・良心の自由は、日の丸君が代強制との関係において最もクリティカルに問われるものである以上、この最高裁憲法19条解釈は日本国家の変容を告げるものであり大きな困惑を与えるものです。
ただそれを支える論理は「天皇制的なもの」というより、「秩序は秩序である」という自同律に基づくものです。

原発放射能)問題と故郷喪失

放射能はまったく目に見えず匂いもない感知不可能なものでしかも大きな災厄をもたらします。
放射能を浴びる事をどのように感受しいや感受できないなら知的に了解し、言説化していけばよいでしょうか?
原発とか脱原発とかいうのは言説の一つのあり方にすぎないわけです。


太宰治は敗戦後「トカトントン」という短篇を書いた*4

トカトントン……の【音】は、昭和二十年八月十五日正午すこしすぎに(すぎから)鳴りだした。鳴りだした場処は日本中いたるところーーである。このばあいの日本とは、日本をじぶんの国だとおもっている人びとがいたところ、どこででも、である。だから、そのときまで、できることなら日本をじぶんの国だなどと思いたくない、と戦中をやりすごした人のところでは、たとえそれが東京のドマンなか(の焼け残りビルの一室)であっても、この【音】は鳴りはしなかったし、とうぜん聴くこともできなかった。*5

太宰自身というより上記菅谷の「(いささか恣意にすぎる?)現象論的解釈」を素材にする。
トカトントン……の【音】とは、国家崩壊を自己の生の核心で感受しながらというか感受したが故に一切の表現行為が不可能になったそんな人、その不可能性を暗示する【音】であろう。


福島県(うつくしまふくしま)の東部においては全面的な故郷(ハイマート)喪失が現実化しています。故郷喪失とは存在の核心の一部が失われたかのように思われる事であり、自分としての表現行為が不可能になってしまうことです。


それに対比して言うなら、関西の左翼にとっては「反原発を言う」ことはほとんどコストが要らない訳です。だいたい左翼であれば以前から原発に積極的には賛成していなかったはずで、その点からもコストは要らない。放射能の危険も今のところまだ、自分事というより他人事なわけでその意味でもコストは要らない。
しかしまあここで意地の悪い考え方をしてみるとすると。コストなしの表現行為など、それほど価値があるものだろうか?

原発放射性廃棄物処理場も、ひとたび事故を起こすと、毒原子核をばらまき、人の住めない土地を生む。そういう事故の後始末をできる技術を開発できるのは、相当後だ。つまり、原発は一つ間違うと国土を削る。そしてそれが実際に起きた。

ここまでは、科学についての知識から導かれる論理的な結論なのだが、ここまで考えると、私は削られていく日本の国土そのものに同一化してしまい、削られる国土の痛みを自分の身体の痛みとして感じてしまうのだ。

削られる国土に同一化すると同時に、そういう事態を引き起こした日本の社会そのものとも同一化している。だから、その時、削っているのも削られているのも私自身なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20110704/p1

id:essaさんは、技術系の人だと思うが文学系思想系の人以上に、表現不可能性の問題と格闘している。で、こうした問題を考える時、まず故郷(あるいはネーション)といった主題系を避けることができない。


故郷(あるいはネーション)といった主題系は必ず天皇制的なものあるいは旧大日本帝国的なものに吸収されてしまう。したがって賢い僕たちはそうした話題を避けなけなければならないみたいな、自立していない左翼が現在でも左翼の大勢である、みたいだがはなはだ嘆かわしいことだと思う。

大阪の兵隊は弱かった

という俗説がある。

またも負けたか八聯隊(はちれんたい)、それでは勲章九連隊(くれんたい)、 敵の陣屋も十聯隊、大阪鎮台(ちんだい)ヘボ鎮台
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/108.html

過酷なシゴキや上下関係があっても軍隊の日々の食事など生活の安定にプラスの価値を見出すことができた貧窮した農村出身者と、軟弱な都会出身者の間では、軍隊観の極端な相違があります。
で口のうまい都会出身者(インテリ)は、軍隊(田舎者)が悪者であって日本を間違った道に導いたといった自分たちに都合の良い俗説を流布し、自分たちの責任(存在論的な)を免れようとする傾向がずっとありました。実際には国家中枢の超エリート(インテリ)とその周辺の準エリート(インテリ。資本家、自由主義者を含む)にこそ、軍と同等あるいはそれ以上の責任があったのは言うまでもありません。*6
ここで問題は、戦争責任を追求すべき(実際に追求した)左翼においても、(エリートほどではなくても)自己の責任は存在したという点です。満州鉄道や体制翼賛運動には多くの元左翼も参加しました。
必ずしも全否定はできない歴史のダイナミズムの中で他者と自己の責任を丁寧に腑分けするという作業はなされなかった。その時の政治情況のなかで敵とされるべきものの責任がヒステリックに追求されるだけで、それも占領軍の逆コースのなかで敗北していった。


少しは汚れている自己の身体と歴史の中から〈価値〉をつかみ出していくのではなく、「平和」や「民主主義」といった流通しやすい価値を高唱する事に満足を見出した。

「反原発」というスローガンより大事なもの

があります。
イデオロギーの如何を問わず、放射能と共存せざるを得ないこと。そして頼りにならない国家と地方公共団体と政治家たちとともに、生きていかざるを得ないこと。
「反原発」「脱原発」というものをイデオロギーとして洗練させることによってでは、大衆を獲得し社会を変える事はできない。
そうではなく、被災地住民のどうしようもなさ、重い沈黙によりそっていこうとする中で「反原発」の思想を深めることが大切だと思います。

「反原発」デモに日の丸を持った人が

来たらどうするか?
当然、受け入れるべきです。
人間というものは百くらいの多様な平面において存在するものとむしろみなすべきであり、主催者の平板なイデオロギーで他者を裁断するなどおろかな事です。

君が代」賛美の価値観とは

 何故なら、「君が代」賛美の価値観(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)は、デモで掲げた「戦争・差別反対」「路上解放」や「人権尊重、公正な経済・社会の実現」とは、完全に相容れないものだからです。それは、実際に戦前において、「君が代」賛美の下でどういう事が行われたのかを見れば、自ずと明らかになる筈です。(山本宣治・小林多喜二などの虐殺を例にあげるまでもなく)
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/d7294ce037f19e279ce27c94f7622b91?fm=rss コメント欄での主催者(プレカリアートさん)の発言より

そうかなあ、「在特会君が代」=(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)かもしれないが、すべての人が「君が代」にネトウヨ的価値観を投影しているのだと言うことはできないと思います。
天皇崇拝もいろいろあるはずで、純粋に人類の平和を願い戦争を反省している天皇主義者もいるだろうと思いますよ。
君が代」賛美の価値観が、思想の自由を圧殺し無謀な戦争、戦争犯罪に対する主犯でしょうか? 「万世一系天皇」中心主義は、明治憲法にも明記されていますがそれが直ちに思想の自由の圧殺、無謀な戦争、戦争犯罪につながった訳ではないと思います。そう理解するのは歴史に対するイデオロギーの効果を重視しすぎでしょう。
また現在の「君が代」賛美の価値観は天皇中心主義を希薄にしか伴わないので、戦前のそれとは異質ではないでしょうか?

主体形成の問題か?

(省略)
君が代」賛美の価値観(天皇崇拝・国家権力への無条件服従)に反対するのはよいが、天皇崇拝批判・国家権力への無条件服従批判がそれだけで、普遍性に通じていると考えてよいだろうか。戦前/戦後と二分し前者を全否定する歴史観はあまりに平板だろう。上に書いたひ弱なインテリの責任を免責することにも通じる。


故郷(ハイマート)というものを否定しがたい価値として肯定しているわけではない。故郷を喪失し失語症に陥ったとき、そのような失語と通底している(だろう)場所として故郷(ハイマート)というものがあり、日の丸とかをそれに関するものとして思い出す人もいないことはないだろう、というだけの事である。

my日本の勇者と連帯するのか?

「拡散」日の丸を掲げ反原発デモに参加しよう
my日本の勇者が出陣します。
http://blog.livedoor.jp/nu_net-aion/archives/3793362.html#

と聞かれると、うーむ、あまりそういう意志もないですが。
でも反原発デモであれば受け入れるしかない。

関連過去ログはいっぱいある

日の丸コレクション  国危(国旗)と書いてある
http://blogs.yahoo.co.jp/liangroo/3218029.html


http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090819#p2
  日の丸が好き /日の丸が嫌い についての考察など。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090713#p2
4つのだましうちによって成立した戦後日本
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060424#p1
天皇の必要性について(葦津珍彦)武力にも金力にも決して服せぬ者、政治をも議会をも蔑視して憚(はばか)らぬ者、神仏も道徳をも畏れぬ者、法律にも世評にも拘泥せぬ者を国家に包括するために天皇が必要とする。

モブ・ノリオさんへ

http://ghettomusic.seesaa.net/article/217052952.html
モブ・ノリオさんはブログをもっておられ、上記urlで、7月31日(日)大阪での脱原発サウンドデモの前に対談をします旨、告知しておられます。
TB、メールが分からないので、ここに書きますが上記の写真掲載が不都合であれば、コメントしてください。すいませんがよろしくお願いします。

モブ・ノリオ+酒井氏のしゃべりなど

7.31大阪デモ、の前のトークと断片的音楽
http://www.youtube.com/watch?v=Z8hqsraXvaI
天皇陛下放射線被曝から守れ!」といったアジもあり、7分目ぐらいのところに。

「大阪デモにおける君が代使用についての私的見解」

royterek さんという方の見解。

あくまで徹底して糾弾すべきは、公権力による君が代の強制なのであって、有象無象の群集がいる中でゲリラ的に使用された君が代の流用ではないはず。
http://togetter.com/li/170446

に強く賛成したい。

*1:例:「国土の保全と開発に寄与し、もつて公共の安全を保持し、かつ、公共の福祉を増進することを目的とする。(河川法)」

*2:「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」小渕恵三1999年6月29日の衆議院本会議。「卒業式における国旗・国歌という(作られた)習俗」というものが最初にあり、それを守るために法律が作られた事がよく分かる。

*3:これは最近の指導要領と思われる

*4:1945年1月号「群像」

*5:p477『言葉とメロース』菅谷規矩雄

*6:乱暴に言うと、旧体制派のうち、農本主義的あるいは皇道派的あるいは神がかり的部分は清算されたけれど、少しでも英米派的、自由主義的、ファシスト的、社会主義的、資本家的、官僚的な部分はすべて生き残り、保守派が主導する戦後日本の支配者になった。