松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「最後の審判を生き延びて 劉暁波文集」の後書きの偏向!(2)

3/9にすでに書いたが。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110309

丸川哲史鈴木将久による「訳者解説」を、再度読んでみる。

「〇八憲章」は署名者が2008.12.23には6191人、2010.10.4段階(第23次集約)では一万人余りに達している。ただもう一方、署名をしなかった人々もいる。(略)つまりこの内容を知った上でも署名をしなかった人々が存在する。このことをどう考えるかを一つ目の問題としたい。

と丸川*1は語り始める。

さて、一番目の問題の吟味から入りたい。「〇八憲章」に署名しなかった人々のことである。

一般的に中国の外からの臆見として、「〇八憲章」は中国現体制の価値観と真正面から対立するものとして表象されがちである。しかし「〇八憲章」の前言にもある通り、現在の憲法にもすでに「公民の基本的な権利と義務」に関連して「人権の尊重と保障」が書き込まれており、また憲法第二章の「公民の基本的な権利と義務」に関連して、「言論、出版、集会、団体の形成、行進、デモ、宗教などの自由」が表記されている。

ということは、問題はそれが実行されていないことである。だから問題はそれが実現されていく具体的道筋にありそうだ。

ただし、価値的に決定的に対立するところもある。最も大きいのは、現代中国に対する歴史的総括(文革毛沢東時代の評価)と、またこの総括と関連したところで、いわゆる国家形態の違いである。現在の国家形態を「〇八憲章」が指し示すような形へ転換することーーそれが今の中国においてどれだけ必要なことであり、またどのように実現可能なことなのか、という議論が浮上する。

p383の11行の文章を一段落すべて転記した。改行によって4つの部分に分けてみたが、原文にはこの改行はない。なんとも構成が分かりにくい文章である。
二行目で「言論、出版、集会、団体の形成、行進、デモ、宗教などの自由」は現在の憲法にはすでにあると指摘している。「〇八憲章」はその点であまり値打ちが無いと言いたいようだ。

三行目で、「ということは、問題はそれが実行されていないことである。だから問題はそれが実現されていく具体的道筋にありそうだ。」と、丸川は他人事のように言う。しかし劉暁波は他でもないこの憲章の起草によって罪に問われている。中国当局のやっていることは、「〇八憲章」に反するだけでなく、現行の憲法にも反するのだ。*2
具体的という以上、著者の逮捕というこれ以上身近な問題はないわけだが、丸川はそれには触れない。「憲章」とか「憲法」とかいうものはパソコンで言えばOSに当たるものだろうが、丸川はそこで話をそらし「具体的道筋」にもっていく。*3 読者はわけが分からないが、丸川としては「劉暁波は中国の国家形態の転換を主張している」という当局の主張に近づけるための必要なステップであるわけだ。

解説という名前の文章なのに「〇八憲章」を一切解説せず、いきなり、「現代中国に対する歴史的総括(文革毛沢東時代の評価)」が「価値的に決定的に対立する」とくる。何と?文章の流れから言えば、「現在の憲法」のようだが、憲法にそんなことは書いてないだろう。であれば、「中国現体制の価値観」と対立しているのだろうか。

「〇八憲章」は翻訳で9ページあり、沢山のことが述べられている。しかし当局はそれを、「人民民主独裁による国家政権と社会主義制度の転覆を目的」とする「扇動」行為であると認定する。

「〇八憲章」を読んでも大抵の日本人は高校の教科書みたいという感想しかいだかない。それについてここが優れているとかダメだとかいうのではなく、性急にも「国家形態の転換」を今行うことは是か否か?という議論に丸川はもっていく。

現在の国家形態を「〇八憲章」が指し示すような形へ転換することーーそれが今の中国においてどれだけ必要なことであり、またどのように実現可能なことなのか、という議論

どのように実現していくのか、については、「〇八憲章」は触れている。

同じように危機感、責任感、使命感を持つあらゆる中国の公民が、朝野を問わず、身分を問わず、小異を残して大同につく精神で、公民運動に積極的に参加し、ともに中国社会の偉大な変革を推し進め、一日も早く自由民主・県政の国家を作り、

といってもレーニンのように強固な前衛党を作って云々といった組織論があるわけではなく、志を持ったものが集まり社会を変えていくという素朴なものにすぎない。


で、「「〇八憲章」に署名しなかった人々のこと」は次の段落に出てくる。なぜこういう構成になっているのだろうか?そもそもある署名運動に署名しなかった人たちの主張というものを取り上げるのはふつう無駄である。なぜなら市民社会とは多くの人が任意の問題意識を持って任意の方向を向いて生きているのであり、署名運動に参加するならその人たちはそれに賛同したという共通点を持つが、参加しない人は何の情報もなく様々な方向を向いて相交わらないままである。署名しなかった人々に共通点が存在するだろうと考える人は、儒教とかスターリニズムなどを皆に強制するのが当然と考えられている社会の産物であろう。


さて、「〇八憲章」に署名しなかった人々の代表として取り上げられるのは、経済・歴史学者秦暉氏は、である。「〇八憲章」はチェコスロバキアの七七憲章の真似だと秦暉は言う。しかしチェコと中国では状況がまったく違う。チェコでは元々から「民主憲政の歴史的記憶が深くまた既に高福祉社会が実現していた。そのような社会では七七憲章のような自由権の主張は適合的だった、しかし中国においては違う。そのような歴史的前提がない中国に置いては、「それよりも、福祉や公共サービスをどうするかという「生存権」の主張の方が重要だ」、とする。

まあそれは一つのありうべき批判であろう。何度も言うがある論者は「〇八憲章」に賛成する必要はない。福祉や公共サービスをどうするかといった問題について「憲章」を改正するという形で提案されたのなら討論すれば良いし、そうでなくても問題意識として生かしていくことができる。多くの人が「平等な参加、公平な競争、共同の政治議論を基礎として、平和的な方法で」問題解決していくことができる、というのが「〇八憲章」であるのだから。*4

で最後に、「以上のような秦氏の議論は、中国国内において「〇八憲章」に署名しなかった人々においてかなり代表的な見解であると言える。」と、丸川は言うのだが「署名をしなかった人」などという特定がそもそも不可能である以上この断言は成立しない。*5


で結局丸川の掲げた「一番目の問題」というものは、25行かけて何を言っているのだろう。
「この内容を知った上でも署名をしなかった人々が存在する。このことをどう考えるか」これ自体が問題たり得ないのは当たり前のことであり、そのとおりの結果になったわけだ。
丸川氏はここでまあ、二つのポイントを稼いでいる、一つは、
「それが実現されていく具体的道筋」という言葉で、「劉暁波は中国の国家形態の転換を主張している」という当局の主張が見当外れではないようなイメージを読者に与えたこと。
次に、同じ民主化陣営の友人である秦暉氏が署名しなかったことをことさらに取り上げ、「〇八憲章」が一万人余りの署名を集めたことの権威を相対化しようとした点。


これを要するに、劉暁波を犯罪者と呼びノーベル平和賞の宗旨に反しているとする中国政府の主張に幾分かの理があるかのように思わせたいという、中国当局援護という方向性である。丸川がなにゆえ、そのような動機を持つのか私には理解しがたい。好きでない人の本ならわざわざ出版に関与する必要がないし、わざわざ「解説」と名乗って劉暁波を幽閉している当事者の援護という方向性をもっているとしか解釈できない文章など付け加えるべきでない。

子安先生の批判

3/9に書いたが再度書いてみた。それだけ丸川の文章はひどい、と私には感じられる。
今回書いたきっかけは子安宣邦先生が、この本の出版及び後書き批判の文章を公表されたこと。
http://homepage1.nifty.com/koyasu/remark.html
後書き批判の部分を転写させていただくと次のとおりだ。

「解説」は「08憲章」とノーベル賞授賞についての二つの疑問をいう。この二つの疑問は後者についての問いに集約されるものである。その後者の問いをここに引いておこう。この問いに、この「解説」の本意も、この書の刊行意図もすべて露呈している。


「さて第二の問いの検討に入ろう。劉氏がノーベル平和賞を受賞した経緯、さらにノーベル平和賞そのものをどう考えるかである。問題を突き詰めていけば、こうなるだろう。人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、劉氏への授賞の理由「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国において人権問題で闘い続けてきた」こととは別のところで、授賞は劉氏と「〇八憲章」の思想にある国家形態の転換に深く関連してしまう、ということである。平和賞授賞は、中国政府からすれば、やはり中国の国家形態の転換を支持する「内政干渉」と解釈されることとなりそうだ。その意味からも、ノーベル平和賞が持っている機能に対する問いを立てざるを得なくなる。」


これは実に曖昧で、不正確で、不誠実な文章である。劉暁波問題という現実とあまりに不釣り合いな、いい加減な文章である。これを読んで、何かが分かるか。分かるのはこの「解説」の筆者が中国政府の立場を代弁していることだけであろう。劉暁波は中国の国家体制の転覆を煽動する犯罪者であり、その国内犯罪者に授賞することは内政干渉であるとは、中国政府が主張するところである。丸川・鈴木はこの中国政府の主張と同じことを、自分の曖昧な言葉でのべているだけである。この曖昧さとは、これが代弁でしかないことを隠蔽する言語がもつ確信の無さである。私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。

「私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。」私はここまできっぱり言いきれないないが、同じ思いである。


ただ劉暁波をよく知らない人*6は、劉暁波の本の「解説」にわざわざ劉暁波にケチを付けたいとするような文章が載っていて、とまどうばかりだろう。そこで再度、1行づつ解読し、丸川の文章がいかに無内容、すなわち醜悪であるかを解読しようとしてみた。
若干重複するが前回の記事もよろしく。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110309#p1
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20110309#p2


劉暁波理解について、そしてまた天安門事件をどう評価するかについて、議論をはじめることができる常識は日本のインテリの間には存在していない。エジプト革命について無知だから語れないのとは理由が違う。劉暁波有罪はとんでもない人権侵害だと判断できる常識はあるのだが、それを公然とは言わない方が良いのだという抑制が一方に存在する。
その抑制は、戦争中の中国に対する残虐行為を総括せずに*7きたことと関係がある。しかし具体的には、その抑制をなんとか強化しようとする丸川のごとき気持ちの悪い言説の存在があってはじめて、私たちの愚かさは再生産されているのだ。

*1:丸川・鈴木だが煩雑なので丸川のみとさせていただく

*2:もちろん当局の見解は違うのだろう。裁判で劉暁波を有罪にしたのだから。したがって解説というのなら、中国当局はなぜそうしたことをしてしまうのかを解説して欲しい。しかしそういう解説はない。

*3:パソコンで言えばインストール

*4:p268

*5:狭いセクト内とかであれば別だが

*6:劉暁波理解についての常識は日本のインテリの間には存在しない。したがってたいていの人はこちらに入る。もっと難解なデリダとかは解説書も多く常識が存在するが

*7:日本国家がそうであるというのは、米国や中国自身との共犯関係でもあるのだが