松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

日本というものに〈 〉をつけていく

 さっきの声を聞いて、遠心=求心を一致させようとする時間と、それを泥の中に埋める時間とが対話している、という風なことを一瞬でも考えたものはここに集まってくれ。かんたんにいうと、この空間に〈ない〉すべての組織構成員に、めいめいが仮装するのだ。きみたちのめいめいはこの空間にも、所属する組織にも、〈 〉をつけていく。そして……
(松下昇 「六甲」第5章)

日本というものに〈 〉をつけていく。日本という物は、かって何かであったそれ*1が特定の歴史において西欧の政治と文化に出会うことにより急速に求心化したものである。私は日本人であるのだろうか。例えば私が裁判に訴えその限りで日本の法的制度としての限界を知ったなら、私は日本のある部分を知ったことになる。それがなければ、知らないことを許されているわけであり、それが「日本人で在る」ということだろうか。
日本という物を定義しようとすると困難にぶつかる。それは一つの作為性である。大きな戦争の敗北に対し、何か負けていないものを保持しようとした卑怯未練な勢力がその構成要素は変わりながら、日本を支配し続けている。
日本というものを正確に把握するためには、シンパシーからもルサンチマンからも(例えばこうしたときに外来語を使うなという)美意識からも自由でなければならない。
いわば、宙に浮いた形で日本を把握すること、〈 〉をつけるとは、例えばそうしたことかもしれない。
  
組織に所属するというのは普通のことだが、わたしたちが正確であろうとするなら実は大きな危険を孕むことを知らなければならない。わたしたちは組織目的を達成することによりわたしたち自身の幸せを手に入れる。とすればある時、わたしは組織目的のために生きなければならないのだ。まして国家は自分の意志によりそれから自由になれるほど小さな存在ではない。
この空間に〈ない〉一つの国家の構成員に、私は仮装する。越境に先立って本質が亡命するのだ。トリッキーな言説。しかしトリッキーな言説はやはり、それだけの情況の強度をくぐって生まれてきたのだ。
 
ある方に差別者であると言われたわけだが、ふむ。日本国内で在日朝鮮人(なかでも総連系)はかって厳しい差別にさらされ、現在もまたそれが持続している。私の出自についてカムアウトしていないが、まあ普通ないしそれ以上の日本人であるので、その限りにおいて一つの優位を所有していると認めてもよい。でただ、そうした問題を議論に導入する手つきがはなはだ乱暴である。結局議論の総体が「総連擁護」という結果のためだけあるという形になってしまう。かって人民の幸福=スターリンの意志が最終審級になったのと同じ思想のスタイルではないかな。
 
組織に所属することの危険に反発するあまり、組織に所属しないことを価値としてしまう。おそらくこのような現実の平板化が、彼にはあったのではないか。
わたしは誰も実は自分がそうであると思っているよりさらに、自由である。良心の自由は限定された物にすぎない。
この空間に〈ない〉国家の構成員を仮装する自由。突飛に見えてそれは、かえって自由の本質を指示しえているのだ。

*1:江戸時代は幕府/天皇に加え各藩もあった