松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

現代中国知識人批判(その1)

    劉暁波「現代中国知識人批判」*1の紹介。


文化大革命」が終わった後、中国の知識人は誰もが「文革」に対して否定的な態度を取っている。
しかし、文革をもたらしたものは専制政治であり、その背後には「数千年の人治の伝統」がある。

こうした否定は、長期にわたる中国の専制主義社会における皇帝や貪官汚吏に対する批判と同様に、「名君」によって「暗君」を否定し、「清官」によって「貪官」を否定し、「君子」によって「小人」を否定するものであり、要するに専制主義の「精華」によって専制主義の「カス*2」を否定しているのである。
(p8 「現代中国知識人批判」)

要するに批判があったとしてもそれは「専制主義」という枠組みの中のものであり、そうではなく「専制主義」という枠組みそれ自体を批判しなければならない、と劉暁波は説く。

さらに重要なのは、中国の知識人の否定は自分に向けられることがめったになく、もっぱら他人に向けられるということである。そのため、こうした否定は、屈原杜甫のような憂患の意識に満ち、中国の知識人の伝統である自己美化に満ちているが、「愚昧」な大衆への呼びかけが欠けており、人間の個性、権利、自由にたいする関心が欠けている。*3

劉暁波が何に依拠するかといえば、「人間の個性、権利、自由」であり、ありまた「愚昧な大衆への呼びかけ」である。「人権、自由、平等、民主」「法治」「私有経済と自由市場」というキーワードによって、現代資本主義が希求される。
ここで、日本人であるわたしたちは最初の躓きを確認する。それらの言葉は言葉として制度として、十分に60年前から日本人には与えられてきた。しかしそれによって私たちはどのような社会を実現できたのか。それを思うと現代資本主義を希求するというベクトルには素直には同意できない。
しかし、制度が問題なのではない。「人権、自由、平等、民主」を魂の強度において希求してしまうやむをえなさが劉暁波にはあり、それはわたしたちに働きかける。


ところで、「文革」とは何だったのか? 劉の説明を聞こう。
文革ではすべてが否定された。政治指導者としては独裁者毛沢東ほか数人だけ、他はマルクス、エンガルス、レーニンスターリン魯迅ゴーリキーだけ。で、「さらに重要なのは、それらがすべて反対してはならない絶対的権威としてあがめられ、反対する者は反革命とされたことである。*4
しかし、文革が終わり風向きは変わる。「文革が否定したものならなんでも支持する」といったドタバタ劇が始まる。*5 新儒学が盛んになる*6胡適魯迅の「全面西洋化」を批判する本がでる。伝統回帰ですね。
劉のこの本は、現在において専制主義を支えてしまう知識人たちを、中国の伝統の正嫡と見て、伝統ぐるみでそれを批判するものである。伝統回帰が当時のブームだったそのような風潮のなかに、中国文化の構造的病をみて、それを全面的に批判しようとしたものだ。


「学びて優なれば即ち仕う」*7という論語の一節を引き、中国知識人は基本的に官途に就くことを本質とするんだと言う。即ち、功利的であり超越を知らない。

中国の知識人の思考方法は目前の成功と利益を求めるのに急で、純粋な学術化、理論化の方向に発展するのがむずかしく、その思考には超越性がない。(略)政治を越えた理性的態度で事物を正視する実証精神を培(つちか)うこともない。*8

伝統における超越の不在という問題は、日本とも共通するし興味深いのでさらに引用する。

宗教の次元では、中国の知識人の心のなかには西洋における意味での神はなく、完全に厳正化し世俗化した「天」と「仏」があるだけである。天道がすなわち人道であり、仏性が即ち心性である。早くも先秦において「天」は聖賢の人格、君主の権力、社会の等級の同義語であった。唐宋以後の「禅宗」は、インド仏教にもともとあった彼岸世界、他律済度、仏の絶対超越性を取り消し、此岸修練、自律済度、仏の現世化をこれに替えた。いわゆる「以心伝心」、いわゆる「心性即仏性」、いわゆる「屠刀を放下せば、たちどころに仏と成る」は、いずれも宗教の世俗化の表現である。
 さらに重要なのは、こうした宗教の世俗化が中国文化のなかの帝王、聖賢、祖先を崇拝する伝統と結合し、神を崇拝せずに人間を崇拝するという中国独特の伝統を形成したことである。(略)
・・・表面からみれば、毛沢東を崇拝することはある種の真理の化身、道徳の化身にたいする敬慕であったが、しかし実際には政治的独裁権力に対する愛着と畏怖であった。*9

伝統をやみくもに否定するのではなく、伝統に対する深い理解の上にそれを批判していることが理解できよう。

西洋哲学のなかの形而上学の伝統には、ふたつのおおきな特徴がある。
1、本体論において、ひとつの絶対的な超経験的実体を確立しようとする。こうした追求は途のもの、不可知なもの、さらには不可知で神秘的な事物までも把握しようという人類の衝動を代表しており、完全に功利を越えた絶対的審理に対する人間の渇望を示している。
2、方法論および認識論において、高度に厳密で明晰な論理性を追求することによって、理論が一種の数学のような透明性と合理性に到達している。こうした追求は秩序化と形式化にたいする人類の愛好を示している。人類は自分の抽象能力だけによって、いかなる経験的な材料の助けも借りずに、ひとつの自足し完結した純粋な精神世界を創造することが完全に可能なのである。これは人類に特有の知力のゲームである。この世界において、唯一の材料は人間が創造した言語記号および各種の言語に類似した記号である。(西洋では)超経験の実体と論理的方法の結合によって、人間が超越性をもつ存在であることがたしかに証明されている。*10

彼が西欧文化をどう見ているかについての一節を追加しておく。

*1:isbn:4193549747 C0036

*2:糟粕

*3:p9 同書

*4:p15 同書

*5:p17

*6:梁漱溟、馮友蘭、熊十力などを再評価しつつ継承するもの、と註にある

*7:http://blog.mage8.com/rongo-19-13

*8:p175 同書

*9:p176 同書

*10:p179 同書