松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

敗戦の苦痛

さて、初心に返ることが大事だ。といっても私などは十代のころから40年ほとんどどこへも行かずに同じようなことを考えていたのに、蓄積がないというのはどういうことなのだろうか。まあそれはおく。

もし、明治以後の日本の近代史が、そのまま順調に進んでいるならば、専門研究の枠を守っていればいいだろうけれども、本来あるべきでない戦争、その結果としての敗戦の苦痛というものを導きだした。それならば日本の歴史がどこで間違ったかを探ることから出発しなければ、自分たちの今生きている根拠が解明できない。(p447「日本とアジア」)

竹内好はかってこう言った。竹内がそう宣言してから数十年日本は空前の繁栄を迎え、竹内の苦悩は不要であるかに見えた。しかし現在はどうか、状況を「敗戦の苦痛」であるとやはり考えるべきなのではないかと思う。敗戦とは一つは小泉以下が積極的に追随したブッシュ、チェイニーのイラク・アフガン戦争である。また日本の敗戦から60年以上経つのに、沖縄県民の控えめな要求に応えずに対米従属という関係を打破する意志のない鳩山政権、負担は沖縄に押しつけたまま自分たちは知らん顔をしていればよいのだと横着を決め込んでいることに恥じない本土人民の姿がある。これは外部から観察すればなぜ、独立から60年近く経つのに従属であるかのようなものをここまで大事にし続けなければならなかったのか不思議に思えるような事態である。これを「敗戦の苦痛」と指摘しなければならない。そしてまた長い間の自民党政権が終わり今までとは違った統治の方法を提起すべき時であるのに、説得力のある思想を誰も提起できないというのも「敗戦の苦痛」である。
今大学の危機が言われる。しかし私たちがどのような根拠と希望によって生き、そのためにこうした学問が必要だと述べる、述志の文学といったものはどうも見渡したところ見あたらない。竹内が書いた通りである、以下のように。

観念を取り出すのが科学的だと思っている学者は、科学的という観念のなかにいるだけである。(略)かれらは、かれらをのせて動いている場については、考えない。もし考えれば、彼らの学問なり文学なりは成立しなくなるから。だから学問や文学に忠実であること、そのことが、学問や文学に遠ざかることになる。日本で学者になるには、あらゆるものを疑っていいが、最後の疑いだけは疑ってはならぬ。もし疑えば、かれは学者でなくなるから。
(p31「日本とアジア」)

先日のノーベル賞学者たちの会見は、このような視点から見ると残念ながらカリカチュアの極みだったと評せざるをえない。官僚による予算配分システム自体が問われているのに、彼らは大文字の科学研究というものを予算配分システムのうえのそれと同一視するという錯覚を、大々的に再演して見せただけだった。しかもそれが一定の効果を生むというのはなんともはや。*1


「現代中国知識人批判」(劉暁波)という薄い本を私は読もうとしているのだ。この本もまた「敗戦の苦痛」を出発点にしている。この場合は「中国の歴史上空前の大災禍であった〈文革〉」後の苦痛であるが。
分かり切ったことしか書いてない本のようにも見える。しかし、この本が持っている全存在を賭けた批判、それが持つ熱気というのは私にある衝撃を与えた。それを迎え撃つために私は竹内好を買いに走りまた屈原の本をひもといた。
これからすこしづつ読んでいきたい。

*1:会見をちゃんと見てないので間違っていたら指摘してください