松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

我もまた一人のホームレスである。


http://docs.google.com/View?id=dg5mtmj9_8g3hk27f5#aiww *1

中国の知識人には自由が欠けている。それは昔からずっとそうであって、現代にいたってピークに達した。専制権力は、中国の知識人がそのために生き、そのために死し、それに忠誠をつくし、それがために愚昧(ぐまい)になり、それがために凡庸になり、それにひれ伏さねばならない上帝である。*2
劉暁波*3 


わたしたちは無意識の前提の上で生きている。普通のひとにとってそれは、仕事や家族が社会や自己と連続したものとして肯定されているという自明性であろう。その自明性を支えるものは西欧ではもちろん神である。東洋*4では天である。それを劉暁波のように専制権力と同値してよいのか考えなければならない。
仕事〜家族〜社会〜自己が連続的に肯定される事がなければ、我々は狂ってしまう。しかし、、連続的な肯定がほぼ達成されることもまた不可能であるのだ。ふとした裂け目は、時として致命的に深化するかもしれないところの裂け目はいたるところにある。


駅に向かって急いでいる時、にこやかに呼びかけてくれるビッグイシュー売りのおっさんというものも〈裂け目〉の顕現である。なぜなら彼らはホームレスでありながら、路上において私たちが望むように〈物〉になっていてくれず、わたしたちに向かってにこやかに呼びかけてくれるからだ。もちろん彼らが〈にこやかに呼びかける〉権利を獲得しているのは、「販売」つまり「スマイルはタダで提供しております、買わない自由は百%お客さまにあります」という主客に奴隷的落差を設定する資本主義という制度にのっとっているからにすぎない。つまりそれがあるから、わたしたちは彼らを無視する権利をあらかじめ持っている。しかしそれにしても彼らはホームレスという排除された存在性を誇示する名前を持っている者である。彼らがどんな寝床に付くのかわたしたちはほんの少し心配する。


社会というものは排除と包摂の二元性を持つものだ。わたしたちが21世紀に生きることになった新自由主義的資本主義はもっぱら排除を全面に出すがそれだけで成立しているわけではなく、裏側では包摂が働いている。
中華人民共和国でも違法に収監されているのは、劉暁波ただひとりであり他のひとたちは何とかお目こぼしいただいている。*5


政治や社会について語りたいのではない。愛や自由について、語らなければならないのだ、私は。つまりどこから見ても取り柄のないみすぼらしいホームレスが目の前にいたとして、私はもちろん彼/女を無視して通り過ぎる自由を持つ。その一方で、彼/女を通り過ぎない自由を私は持っているのか? というのがここで提示したい問い、です。


冒頭の「中国*6の知識人には自由が欠けている」とはまさに、彼/女を通り過ぎない自由を私は持っていないことを告げている。


どこから見ても取り柄のないみすぼらしいホームレスが目の前にいたとして、わたしは私としてそこに存在するのではなく神からの分有としてあるものであるのだ。したがって、相手が社会常識からみていかに排除すべき存在であったとしても、人間である以上は私がそうであるのと同じく神からの分有としてあるものであるであろうことは否定できない。私がいかに高級知識人であろうが神からの距離は無限でありすなわちホームレスから神への距離と等しいのだ。


このとき専制権力(帝王あるいは毛沢東)こそが神であるという根拠しか私たちが持っていないならば、目の前のホームレスが権力によって排除されるべき者であるならわたしたちは、「ホームレスはホームレスである」という自同律によって相手を消去するしかないわけである。劉暁波によればそれは自由の消失を意味する。

東洋に自由はあるのか?

東洋に自由は存せず。囚われの劉暁波やいつまでも空港から国に着けない馮正虎を考えるとき、*7、その判断は正しいかに思えます。


しかし東洋の思想伝統には、西欧よりもっと直接的に「我もまた一人のホームレスである」とする思想を発見することができるのではないでしょうか。


論語に曰く。

  微子去之。箕子爲之奴。比干諌而死。孔子曰。殷有三仁焉。


微子(びし)はこれを去り、箕子(きし)はこれが奴(ど)となり、比干(ひかん)は諌(いさ)めて死す。孔子曰く、殷(いん)に三仁(さんじん)あり。 [微子(びし)第十八]
http://kanbun.info/keibu/rongo1801.html

最高理想たる仁の人格的化身とされる三人は、ホームレスどころかそれよりひどい境遇に追いやられてしまいます。

  子曰。郷原。徳之賊也。


子(し)曰(いわ)く、郷原(きょうげん)は徳の賊(ぞく)なり。 [陽貨第十七]
http://kanbun.info/keibu/rongo17.html

郷原(きょうげん)とは今の市会議員やブロガーのようなものでしょう。価値や根拠について語りうると自負し語って見せるブロガーのようなものは、徳の賊に他ならないのです。何故か。言説行為という人間の本質とは別のところに、徳というものはある、と孔子が考えていたことは間違いありません。

ホームレス=聖(ひじり)

日本では昔、ホームレスのことを聖(ひじり)と言いました。敬意なしにただの名称としてそうなっていたのですが、古代中世には本来の尊敬も残存していました。

ちか頃、天王寺にひじりありけり。(略)そのすがた、ぬのゝつゞり・かみぎぬなどのいふばかりなくゆかしげに(*昔の後をとどめないほどに、という意か。)やれはらめきたるを、いくらともなくきふくれて、布袋のきたなげなるに、こひあつめたる物をひとつにとり入て、ありき/\これをくらふ。わらんべいくらともなくわらひあなづれど、さらにとがめはらだつ事なし。(略)つねにはさま/〃\のすぞろごとをうちいひて、ひたすら物ぐるひにてなむ有ける。さしてそこに跡とめたりとみゆるところなし。かきのね・木のした・ついぢにしたがひて夜をあかす。 (鴨長明 発心集)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1216_hosshinshu_1.htm#1_10

又近頃世に佛みやうといふ乞食ありけり。それもかのひじりのごとく物ぐるひのやうにて、くひ物はうを・鳥をもきらはず、著物はむしろ・こもをさへかさねきつゝ、人のすがたにもあらず。あふ人ごとに、かならず「あま人・法師・おとこ人・女人等しやう/〃\。」といひおがむわざをしければ、それを名につけてなむ、見とみる人みなつたなくゆゝしき者とのみ思ひけれど、げにはやうありけるものにや。阿證房といふひじりをとくい(*親しい友人)にして、思ひかけぬ經論などをかりて、人にもしらせず、ふところに引いれてもて行て、日比へてなむかへす事をつねになんしける。つゐに切提のうへに、西にむかひて合掌たんざしてをはりにけり。
これらは、すぐれたる後世しやのひとつのありさま也。「大隱は朝市にあり。」(*王康琚「反招隠詩」)といへる、すなはち是也。かくいふ心は、賢き人の世をそむくならひ、わが身は市の中にあれども、そのとくをよくかくして人にもらさぬなり。山林にまじはりあとをくらふするは、人の中にありて紱をえかくさぬ人のふるまひなるべし。 (同上)

すなわち、賢き人が世をそむかざるを得ないのは、「ならひ」つまり一つのあるべき規範であるとさえ長明は考えていたのです。


東洋自由思想には、ひどく貧乏くさいところがあります。乞食の臭いといったものを価値として尊ぶところがあるのです。「東洋には専制権力以外の神がいなかった」という、劉暁波の説を採用すればこれを説明することができます。つまり東洋ではホームレスになる以外に自由である手段がなかったわけです。


現在わたしたちは、一定の生活と文化を享受しています。しかしそこに自由はあるのでしょうか。囚われの劉暁波やいつまでも空港から国に着けない馮正虎のところにだけ自由があるのでしょうか。劉暁波馮正虎という存在をたとえ知らされても「ホームレス」カテゴリーに入れて無視する生き方に、自由があるとは言えないのではないでしょうか。

*1:11/20に書いた馮正虎氏の(今の暮しにおけるすべての)所有物

*2:原文は「であった」。現在では上帝に「愚昧な民衆」という新たな上帝が付け加わっている。

*3:りゅうぎょうは/劉晓波 p108「現代中国知識人批判 野沢俊敬訳 徳間書店 1992年刊行 原著《中国現代政治と中国知識人》 台北唐山出版社1990年出版 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2

*4:東アジア

*5:言論の自由を求める高級知識人においては

*6:東アジアの

*7:もっと規模の大きな北朝鮮収容所や脱北難民のことも