松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

あやまってばかりの人生

pan@pan-desktop:~/rb$ ruby def3.rb
1回目 野原がいけなかったのです。
2回目 野原がいけなかったのです。
3回目 野原がいけなかったのです。

rubyの勉強をしていますけど、*1あまりにも程度が低いのでここには書かない。
http://asaasa.tk/wiki/?Ruby%2F%E9%96%A2%E6%95%B0 のページは「 関数は def というキーワードで作成できます。」というところから始まります。メソッドとか言って高級ぶらないところが好感が持てますね。

def my_func(name="nanashi_san") ; puts "hello, " + name.to_s ;end ; ;my_func ; ;for i in 1..10 ; my_func(i) ;end

初めての関数プログラム。それを少し変えて上記を出したのですが、
「def2.rb:5: warning: parenthesize argument(s) for future version  def2.rb:5:in `my_func': undefined method `&' for "回目 ":String (NoMethodError)」
とかエラーが出回ってうまくいかない。10分ほどかかって上記に成功。で誰かに怒られてるわけでもないのに、なぜ謝罪を連呼するのか。スペースの都合で三つしかのせていないが、謝罪はもっとずっと続くに違いない。もう二度と過ちをおかさないために謝罪すべきなのに、野原はそうした効果が現れるだろうとは期待していない。いったい何のために野原はあやまり続けるのだろうか。
意味不明。


わたしが存在し、神は存在しない。ほかには、国家や言語や常識(というわたしにとって外なるもの)が存在するらしい。国家や言語や常識は(わたしにとって外なるもの)なのでわたしはケチをつけられ続ける。わたしはあやまり続ける。それでもわたしはわたしなので過ち続けるしかない。
平気な顔で老年まで生き延びながら、わたしのそこにはそうしたひどく孤独な?形而上学が存在するのか? それは罪だ。

ルサンチマン

一見、これはニーチェが攻撃したルサンチマンな生き方そのものに見える。
ただ、けっこう微妙であると考えられる余地はある。「世間の常識を否定し、自分というものを信じて生きていきなさい」と教えている(キリスト教も仏教もニーチェも)。*2

政治面から

http://www.geocities.jp/osakakoudou/
辺野古に基地をつくらせない」行動 へのブクマで引用した、沖縄基地の現状と本土人の無関心

沖縄は国土面積のわずか0.6%にすぎないにもかかわらず、米軍専用基地の実に75%が集中しています。それらを見ようとしない「本土」に住む私たちの「無関心」という問題に気がついたのです。

謝罪するのは政治的に正しい振る舞い方ではない。撤回せよと叫ぶのが政治的振る舞い方。
であるが、野原はいけなかった、のだろうか。問題意識を持ちながら無関心から抜け出そうとする行動(自分一人でネットの文章を読むことでも行動だ)を取っていないのは正しくない。
ただそうした問題で倫理的になるのは、不正確な自己を形成してしまうことだと思っている。できることをやるという素直な姿勢で良いだろう、と。

徴兵を逃れるために世界中を流浪し

なければならなかった、なんてことは私にはなかった。軍隊の存在意義に疑問をいだきそれを公言してもなんのお咎めもなかった。
「日本では当たり前」のことですよね。韓国では大変だ。・・・だからどう、互いが置かれた情況を前提としてしか考えられないが、存在の有り様の前提を問おうとすることは大事。

しかし、いまも韓国には徴兵制度が厳然としてあり、代替制度はない。
http://autonome.blog7.fc2.com/blog-entry-154.html

*1:今だけですぐ止めるから上達しないのです

*2:野原の解釈では