松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

山中智恵子の『斎宮女御徽子女王』

 山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』という本が図書館にあったので借りてみた。「さいぐうにょうご きしにょおう」とちゃんと表紙にふりがなが振ってある。
アマテラスの本を3冊読んだので、伊勢神宮に少し関心を持ったので読んでみようかと思ったのだ。


伊勢神宮は皇室の祖神であるのに、明治時代まで天皇が自分で参拝に行ったことはなかった*1らしいと聞きその点に、わたしはひっかかりを感じたわけでございます、伊勢神宮の何に関心を持ったかというと。例えば熊野詣でにきわめて熱中した天皇上皇)が何人もいたことなどは有名ですが、伊勢に限ってはタブーでもあるかのように参拝しなかった。不思議ですね。天皇伊勢神宮との親密な関係というのは明治になって捏造されたフィクション(国家神道)なわけです。それはそうなのだがだったら何だったのか?は分かりません。


斎宮女御徽子女王については、こちらに略歴がある。延長七〜寛和元(929-985) 通称:斎宮女御・承香殿女御 
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/saiguu.html
三十六歌仙の一人で、勅撰集に計45首入集している大歌人。しかし山中が悔しがっているように(当然載るべき)百人一首に漏れたため近世以降忘れられた歌人となった。源氏物語のすぐ前の時代の女性でありモデルにもなっているらしい。


山中智恵子さんの『斎宮女御徽子女王』はわたしのように教養のない人にもなんとか読み通せるほど良い本だったように思う。次に「後  記」を全文引用したいが、このあとがきはすごい。わたしの理解が届かない部分がかなりある。しかしそれでも次のことは言えるのではないか。文化とか優雅さといった世間が理解する価値を一切無視して生きている〈詩人〉というものが、それを素直に出してしまっている文章である。
「わが背子を大和に遣るとさ夜更けて晩(あかとき)霜(つゆ)にわが立ち濡れし」という歌がわたしはとても好きだが、実は「天上の虹」里中満智子に教わったのだ。里中満智子はキャリウーマン志向の自己の美化されたイメージを額田の大王に投影した。それはそれですばらしいが。山中智恵子はもっと朦朧として神秘趣味志向の自己を徽子女王に投影する。
 そこに何があるのか。凡人には掴みがたいというわけだが。何があるというほど明確なものはない。あえていえば、「古代姫彦制の残像」「<顕(あ)れをとめ>たなばたつめの神婿の幻像」と言っておいてもよいが・・・

後  記

 伊勢大神宮の御杖代である斎宮には、未明に姉妹が神の声を聴き、まひるに兄弟が政ごとの実務を行う、古代姫彦制の残像があり、山の隈(くま)の聖水を日守(まも)り、祭ごとのまれびとを待つ<顕(あ)れをとめ>たなばたつめの神婿の幻像がある。


 崇神紀の豊鍬入姫、垂仁紀の倭姫以来、欽明朝の神主小事の女宮子を含めて、五百野皇女、伊和志真皇女、栲幡皇女、○*2角皇女、磐隈皇女(夢皇女)、菟道皇女、酢香手姫皇女の、十人の斎王の伝承があるが、大伯皇女が、天武三年(六七四)十月、壬申の乱の後の鎮めとして、伊勢に赴いた時をもって、はじめて斎宮制度が確立した。


周知のように大伯皇女は、謀反の罪を負い、詩語田(おさだ)に刑死した弟、大津皇子への絶唱六首を『万葉集』に遺し、斎宮制第一の人であることによって、最初の斎王歌人となった。

  わが背子を大和に遣るとさ夜更けて晩霜にわが立ち濡れし


  二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

 この大伯皇女の歌は、はるかなる空間距離と時間に堪える、姫彦制の<姫>の稲妻の思いであり、おおかたは歌うことなく過ぎた、世々の斎王の幽晴の切情である。


 平安朝の斎宮群行に先立ち、八省院で「ミヤコノカタニオモムキクマフナ」と、天皇の手によって、別れの櫛を額髪に挿される儀式に荘厳されるものが、「其の神の勢を畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」(崇神紀)神逐(や)らいに逐らわれる、神追放の記憶をもつとするならば、いつきのひめみこ−−斎くには魂をつける、貢納の意味がある−−は、暁露に立ちぬれるほか、いかなるまなざしをもち得ようか。


 大伯皇女から奈良の終り光仁朝まで、当耆皇女、泉内親王、田形内親王、智努女王、圓方女王、久勢女王、井上内親王、県女王、小宅女王、安倍内親王、酒人内親王、浄庭女王の十三代を数え、創世紀にも肖た列名に終るけれども、平安朝は、朝原内親王、布勢内親王、大原内親王、仁子内親王、氏子内親王、宣子女王、久子内親王晏子内親王等は、歴史の烟霞に隠れ、清和天皇貞観三年(八六一)九月に群行した、文徳皇女であり惟喬親王の妹、恬子内親王の『古今集』と『伊勢物語』六十九段狩の使に記される、在原業平との一対の歌によって、「ゆめうつつとは世人(よひと)さだめよ」という、業平の歌詞のように、かきくらす斎宮の幽明は、やっと人びとに思い出された。


伊勢物語』は、流布の第一段初冠春日野からではなくて、この狩の使の斎宮の段が、開口であったという説もあり、この物語成立当時の、斎宮をめぐる世人の関心のほどがうかがわれる。


 大津皇子は、『懐風藻』に、「性頗ル放蕩」にして「状貌魁梧、器宇唆遠」また「法度ニ拘ラズ」と評され、業平は、『三代実録』に、「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、斎宮はいつも、反王権、あるいは反政治の心を抱く、法度に拘らぬ詩人の、禁忌侵犯によって、なおその神聖が記念される運命にある。ここに思い出そうとした、優婉清雅のしょうこう*3歌人斎宮女御徽子女王もまた、みずからの意志によって、事もなげに宣旨を空無化し、「無先例」の再度の伊勢下向を敢行した、柔軟にして法度に拘らぬひとである。

徽子の生涯に、二十年一度の神官御遷宮が、三度行われているが、この歌びとの永い春秋をたどりつつ、その歌の解釈や論評よりも、中世以後忘れられた『斎宮女御集』の歌を、一首でも多く提示したい思い熄みがたく、斎宮志序説とも、徽子伝序章ともつかず、放恣に語り急いだ。再校の朱筆を擱くにあたり、文献あつめを援けていただいた友人たち、大和書房編集部の方々、わけても度々西下され、怠惰な私をはげまし、細心の配慮と明
断を賜った佐野和恵氏の御深切が沁みて思われる。


          山中智恵子
isbn:447983012X C0395


参考:式子内親王(1149〜1201)*4おとなり日記 http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090807 

*1:天皇家の皇祖神を祭る神社であったと思われますが、なぜか、なぜか、天皇が参拝された記録があまりありません。持統天皇伊勢神宮にお参りしたいと言ったことが、日本書紀の持統紀に書かれています。大反対に遭いました。反対の理由が、農繁期で多忙だからとかかれています。ということは、絶対参ってはいけないことではなかったはずですが、参拝するには、相当反対する人がいたことになります。その後、明治天皇まで参拝したという記録はなかったと思います。http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page684.html

*2:草冠に豆

*3:りっしんべんに尚、りっしんべんに兄: こんな漢字も熟語も初めて見た

*4:200年以上離れている