松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

マージナライズされた人たちの心の問題、だそうで

去年、東京に行ったとき、九段のホテルに泊まったので深夜と早朝靖国神社に行ってみた。誰もいなかったのでだだっ広かったという印象しかない。

sk-44さんの例によって長い文章を読んでみる。

小泉純一郎新自由主義は、我が谷の緑がどこにもないことを、私たちに知らしめた。だからこそ彼が「心の問題」として靖国を参拝したことを、人は支持した。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090818

そうかもしれない。マージナライズされた人たちが、だろうか?

天皇を中心とする神の国」にしか、マージナライズされた人たちの現世の居場所はない。昔も今も。

マージナライズされた人たちの現世の居場所は、御霊信仰にあるんじゃないかね、思想史上は。

マージナライズされた人たちをも包括する求心力としての「天皇を中心とする神の国」は、戦後の民衆信仰としての、個人の個人的なる信仰としての、靖国信仰と、体制の動員装置としての古典的な愛国心とを接着する。

個人の個人的なる信仰とは何だろう?(国のためになくなった)肉親への情を確認するための場所として靖国神社という場所が選ばれただけのことだろう。「天皇を中心とする神の国」が接着したのなら、それは普通のあるいは悪質な愛国心にすぎない。
「必ずしも官製とは言えない、」と正確な修辞。つまり「必ずしも個人の個人的なる信仰」とも言えない。

それは、その由来からして当然のことではあるし、だからこそ尊いと私などは思うが。

何故だろう。貧乏人は現世ではどうせ報われないから、あの世での美名をあげるしかわたしたちにはできない、それは尊いことだと?
sk-44さんは貧乏人を知的に馬鹿にしているのか?貧乏人であろうがなかろうが肉親が野垂れ死にあるいは名誉の戦士をしたら、その意味を自分自身で考え詰めることなどできる。その結果が一つしかないなどと勝手に決めつけるのは若者の傲慢にすぎない。

マージナライズされた人たちの旭日旗における包括が、森や小泉のような体制による動員に利用されることさえなければ。

政治家による可視的な動員があろうがなかろうが、靖国で祈ることはナショナリズムに掬われてしまうということが、あらかじめ予定されていたというのは左翼の偏見ではなかったことがいまでは明らかになったと思うが。

国民の天皇が国民の天皇であるがゆえに不在の靖国信仰は、既にしてスターリン的な官製の産物ではない。

繰り返すが、レトリックにすぎない。スターリン的な官製の産物でないが、「必ずしも個人の個人的なる信仰」でもない。

マージナライズされた人たちが、彼らにとって現世の居場所なきがゆえに、英霊を必要とすることをこそ、重んじるから。

ああそうか。マージナライズされた人たちとは815に靖国にくる(右翼的)若者〜年寄のことか。
「「中の人」としての英霊そのものよりも(中の人などいない、と私は思う)、」安っぽいレトリックで自分をごまかそうとしているが、英霊と呼ばれもしようところの「霊」に対して第一義的に権利をもっているのは、(国家に対して怨みも持っているはずの)遺族*1であると考えるのが普通だろう。*2
*3

言えることは、「戦後の国民国家における国民合意の表象」から零れ落ちたものを表象して8月15日の靖国は、その境内に掲げられた旭日旗はある、ということ。そしてそれこそが「マージナライズされた人たち」の引力としてあるということ。ひいては今なお天皇の求心力としてあるということ。

今上天皇は迷惑なのでは?

引力なくして斥力なく、求心力なくして斥力もない。その引力や求心力をこそ、「天皇」において靖国信仰と愛国心が今なお結託する様相をこそ、吉本隆明共同幻想と喝破した。

意味不明。

「マージナライズされた人たち」であることは、必ずしも搾取/被搾取の問題ではない。つまり、下部構造云々に還元しきれない。まさに心の問題。リチャード・ニクソンのように。小泉純一郎が、主観的には自身をそう見なしていたように。

ある種の人は、金持ちでも右翼になる、てことかな?

靖国にあって、心の問題は「民族」という表象を纏う。その場所に、もっともふさわしくない表象を。

靖国に民族がふさわしくないとは、sk-44さんだけの理解だなあ〜

マージナライズされた人たちの心の問題が「民族」という表象を纏いパフォーマンスにおいて「ゆらぎ」を許容しなくなる、そして所謂ヘイトスピーチへと表象されてしまうのは、偏に心の問題の公的な提出を国民合意の名において要請する政治的なる社会の問題である。

貧乏人が、悪質なヘイトスピーチに雪崩込まないための防波堤としての「靖国」論、というわけなのか。やっとわかったぞ。


いまにも悪質なヘイトスピーチに雪崩込もうとしているところの「マージナライズされた人たちの心の問題」を掬い取りたいという野心は買うが、それだけ。無理がありすぎる。

英霊を冒涜するな!

そしてその前日8月15日に靖国周辺で見た、あのボクらと変わらないような風貌の、もっと若い連中も含む日本人たちの正体不明な「怒り」から受け取った恐怖、そして「暴力の予感」のようなものが身体の中をうごめいている。2009年の現時点における彼らのあの暴力性は、「英霊を冒涜するな!」と僕の目に向かって叫んだあの若い女性の表情は一体何を意味しているのだろうか?
http://blog.livedoor.jp/hesalkun/archives/51711260.html

 「英霊を冒涜するな!」と叫ぶ若者にわたしは出会った事がない。在特会といったものはただの馬鹿なので相手にすると馬鹿が伝染るとどちかいうとそう思っていた。でもそうでもないかもしれない。
 「怨!」が流行った68〜69年世代だからそう思うのかもしれないが、「英霊」の本質とはやはり、なんでこんなわけの分からない場所で野垂れ死にしなければならないのか、という悔しさ、怨念ではないのか? 大東亜戦争という巨大な戦いは結果として敗北しただけでなく、戦線のいたるところでエリートの官僚主義の自己保身による矛盾を部下に押しつけそのことによって部下をむごたらしい死に追いやった、そのようなエピソードの集積ではないのか?
NHKの戦争証言 というサイトで丸々見れる番組を2、3見ただけもそれは明らかだろう。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/movie/index.cgi?dasID=D0001210008_00000&chapterNo=1
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/movie/index.cgi?dasID=D0001210009_00000&chapterNo=1


もちろんそれは戦争の一面にすぎない。しかし官僚主義批判は現在の政治状況におけるキーワードでもあるのだ。「英霊」に関わり国家が当然なすべきことは、追悼式典の厳かさを高めることではなく、裁判で嘘をついてまでエリートの責任を回避した*4そうした責任の問題を明らかにすることだ。
(8/23追記)

*1:と戦友、同じ隊列でたたかい自分だけ生き残ってしまったところの。今では少なくなってしまったが

*2:台湾原住民遺族も当然、第一義的に権利をもっているわけだ。ところが「ナショナルな」常識をもっている人がそのことを理解しないことが台湾原住民遺族問題が混乱する一つの原因。

*3:「マージナライズされた人たちなんかはネットに自分らの神社でも建てて祭っとけ。」という1行を、8/30削除。usauraraさんのコメントの示唆による。sk-44さん失礼しました。 

*4:NHK「海軍反省会」シリーズ3回目、たぶん 「ところが、裁判に入ると、元軍令部はその法官を隠して、行方不明にしてしまった。http://11031103.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/109-814-b0c8.html