松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

全体的一と個別的多との矛盾的自己同一


説明:http://h.hatena.ne.jp/noharra/9234281346545913618 など

何千年来皇室を中心として生々発展し来った我国文化の迹(あと)を顧みるに、それは全体的一と個別的多との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと何処までも作ると云ふにあったのではなかろうか。
(西田幾太郎)『日本文化の問題』*1

 さていわゆる天皇制(日の丸をその象徴とする)の本質とは、西田幾太郎が云うとおり全体的一と個別的多との矛盾的自己同一であるだろう。つまり一君万民、多様にして矛盾するたくさんの民が自己をより豊かに開花させることがそのまま秩序に一致するような奇跡、その実現こそが天皇制であるはずであったわけである。そんなことはレトリックの上でしか成り立たないと誰でも思うだろう。満州国や台湾、日本が主導したユートピアに近いものとある種の人が今でも思いたがるそのような地域ですら、ちょっと目を開けて見れば、ユートピアとはほど遠い血みどろの差別と抑圧に満ちた現実が存在してことが分かる。
 ただ、私は現行の日の丸(丸が一つ)に対して、対抗案として上の図(丸が多数)を出したわけです。
 
現行の日の丸(丸が一つ)とは、国家(あるいは帝国)の中心としての天皇を象徴すると。でその天皇とは西田によれば、「全体的一と個別的多との矛盾的自己同一」であるわけです。すなわち、対抗案(丸が多数)というものは西田的パースペクティブによれば、「天皇」というものに予め収束すべき個別的多であるにすぎない。つまり全然、対抗案たりえておらず、統合原理である日の丸に裏面として予め含まれているものにすぎない、と。
 
戦後日本は民主主義(人民主権)の国に変化したはずなのに、結局それは見かけに過ぎず、改憲(つまり戦前の伝統を是とする)を掲げる自民党に統治されつづけてきた。その60年間の重い事実によっても、わたしの対抗案が対抗原理足り得ていないことは証明されると。


ていうか、野原の対抗案なるものには誰も興味を示していないのに何を云っているんだか!(笑い)

西田哲学の可能性についてのメモ(追記)

すいませんがメモさせていただきます。>sadamasatoさま

今日の象徴天皇制を擁護する言説を根底からひっくり返すようなポテンシャルを西田哲学が秘めており、そこから新たな展望が開ける可能性
http://d.hatena.ne.jp/sadamasato/20090515/1242377502

西田は、法の定礎に「絶対無」を置く。それはあらゆる主権「者」を主権の位置から排除する論理として考えられる。いかなる人間や政府、機関も主権者の位置を占めるはできない。ただ、絶対無という虚構=擬制への信に基づくことによって、法の絶対性と永続性が担保されるというのである。もちろんそれが意味するのは、いまある法が絶対的なもの永遠なものとみなすということではなく、法制度が保証されるということである。法によって人格が承認され、人格によって立法されるという循環関係が、絶対無に対する「信」によって担保されるのである。

この西田の立場は、田辺元和辻哲郎天皇機関説が構想した主権論に比べて、徹底的にラディカルな立場とされている。
http://d.hatena.ne.jp/sadamasato/20090508/1241770953

*1:isbn:9784000283212 p63から孫引き