松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

もうすぐ50年になる。

 それはつまりわたしの人生と(わたしに人生というものがあるとすれば)ほぼ同じ長さである。大げさに語り出したが、そのできごとはわたしとほぼ何の関係もない。ただ(わたしたち)はお正月のガザ虐殺に抗議したわけだがそれに比べれば地理的にはごく近くで起こった(そして継続している)ことだ。

 祖父は幼い頃、日本に渡り、財を成した。資産家として羽振りをきかせ、朝鮮総連在日本朝鮮人総連合会)傘下の京都商工会長を長いあいだつとめていた。
 祖母は十三歳のとき日本に渡り、二十歳で日本共産党に入党。民族解放のために戦い、朝鮮総連京都市部の女性同盟委員長として活躍した。
 帰国事業(北送事業)が始まると、祖母はみずから率先して祖父を説得した。そして親戚たちが頑強に引きとめるのをふりきり、その多くの財産をすべて整理して新潟から帰国船に乗り、北朝鮮に来たのだった。それは1961年のことだった。
(p15 姜 哲煥,(安 赫)北朝鮮脱出〈上〉 (文春文庫)isbn:416710914X

さて一家はしばらく平穏に暮らすが、1977年その平穏は突然破綻する。

 家の中はめちゃくちゃになっていた。金魚鉢はこなごなになり、金魚が床の上をぴちぴちと跳ねており、他の家財道具も倒れて散乱し、足の踏み場もなかった。
 家の中には険悪な顔をした七人の侵入者たちがいた。
 彼らは軍靴のまま家中をくまなく探し、ひっかきまわした。ときおりこみあげて出る祖母の泣き声の他には、ただ家財道具をひっかきまわす音だけが響いた。父は気がふれたような様子で奥の間の壁にもたれかかり、首をうしろにのけぞらせて天井を見つめていた。
(略)
 侵入者たちは、手当たり次第に所帯道具をひっくり返しながら、祖母と父に「この野郎」*1と悪態をついた。そして、
「こん畜生め、ずいぶん溜めこみやがったな」
 と言うと、父の小型カメラといくつかの貴重品を自分のポケットに突っ込んだ。それを見ていた美湖*2が、その男にくらいついて抗議をした。
「それはうちの父さんのものよ」
「ガキは口出しするな、あっちへ行け!」
 彼は怒鳴りながら、美湖の小さな胸元を足で蹴った。床に倒れた美湖を抱きしめ、祖母はむせび泣いた。幼いながらに私はこぶしをぐっと握りしめたが、どうすることもできなかった。
(p17 同上)

 翌朝家族は「15号管理所」に送られる。*3
「険悪な顔の七人の侵入者が軍靴のまま家中をくまなく探し、ひっかきまわす」というのは、パレスチナイラクでの情景として何度も聞いたことがある。わきまえのないつまり空気の読めない幼い子供だけが、大人の違法行為を指摘し当然にも蹴倒される、といったこともどこでもありそうだ。


世界中どこでもある不正、といういい方は不正を糾弾せず免罪してしまうことにつながるだろう。パレスチナイラクでの不正、それらはしばしば不正とうよりも端的な殺害であるわけだが、それらの累積はわたしたちを呆然とさせる。しかし北朝鮮における不正はどうか。わたしたちの社会にはそうした情景を流布させまいとする暗黙の了解が存在するのではないか。そうした情景は、北朝鮮=日本国民にとって脅威であるところの「悪」という文脈に合ったばあいだけ報道される。不正は不正自体として認識されることはない。

「帰国者の救済は、日本の左翼に課せられた責任です」

[CML 000097] Fw:守る会NEWS :北朝鮮核実験は政治犯収容所囚人の犠牲の上に行われている について、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090527#p1 で一部紹介しましたが、この記事で原良一さんがもっとも訴えたかったことは最後のコメントでしょう。次のとおりです。

彡☆帰国者の救済は、日本の左翼に課せられた責任です☆ミ

大日本帝国の植民地支配の下で幾多の辛酸を嘗めた朝鮮、
その中でもとり1961年のことわけ多くの苦難に直面させられ、それ故にこそ
日本の左翼運動、反帝国主義、反植民地主義の戦いの第一線に立ち、
日本人以上の熱意で重要な担い手となっていたのが、在日朝鮮人の人々でした。
日本から北朝鮮に「帰国」した「帰国者」には、日本共産党を中心に
日本の左翼運動に多大の貢献したそのような人々が多数含まれています。
日本の左翼・革新・進歩派に属するすべての人々は、彼ら帰国者と日本国籍
配偶者の救済に取り組む政治的・道義的責任を誰よりも重く負っています。
http://list.jca.apc.org/public/cml/2009-May/000094.html

1955年の韓徳銖の陰謀による?、日本共産党からの在日朝鮮人の離脱、分離以後の常識だけから、戦中・戦後の左翼(日本共産党など)を考えると大きく間違ってしまいます。

 1955年(昭和30年)3月11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖*4は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく、中断せざるをえなくなった。だが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。

 5月23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。

 こうして1955年5月25日、今からちょうど50年前、民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。

 同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。

 戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid289.html

左翼と言えば、インターナショナル!、です。しかし北朝鮮との分離、共和国への遠慮を克服できない限り、わたしたちにとってインターナショナル!がいつまでたってもカタカナ言葉、欧米起源のあるべき理想にすぎないという情況は克服できないでしょう。

*1:「セッキ!」とある、文庫本では。

*2:八歳になる妹のミホ

*3:咸鏡(ハムギョン)南道に位置する耀徳(ヨドク)政治犯収容所。全体で5万人あまりが収容されている、とこの本にある。

*4:ハンドクス