松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

自己/最も極端なもの

 「思考が真であるためには、思考は思考自身に対抗して思考しなければならない。」とアドルノは言う。「概念に抑えこまれずに逃れて行くもののなかでも最も極端なものを基準にして自己を測ることをしないならば、思考は伴奏音楽にはじめからなってしまうのだ。」と。(p444 否定弁証法
「それ以外のロマ人、スラブ民族(特に戦争捕虜)、共産主義者ポーランド人、身体障害者、同性愛者など」、昨日このような文字列を書いた。だが*1わたし自身ロマ人などについて語れるほど何かを知っているわけではない。にもかかわらず何故このようなことを語ろうとするかと言えば、「最も極端なものを基準にして自己を測らなければならない」といった、自己否定の命令を大事にしなければならないと思っているからだ。
 良心でもって歴史に誠実であろうとしている自己を大事にすべきなのか? 学者は学問でもって、サラリーマンは仕事でもって社会に影響を与えるというのが正しい生き方である。それを否定するのは難しい。それはそうかもしれない。しかし一方ではものごとの蓄積というものはかならず「弯曲した枠組」を前提にしており、蓄積そのものは本来その弯曲に気づけないのである。したがって、困難を飛び越えて〈最も極端なもの〉をいまここに現出させなければならない。
 心配されるだろうように、〈最も極端なもの〉はすぐに、「連合赤軍的なもの」に変質する。しかし、〈最も極端なもの〉を避ける思考も伴奏音楽になってしまうのだ。思考することは、切り立った刃上を歩むことだ。

*1:いつものことだが