松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

われらが心の内なるイスラエル

ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、人にはそれぞれ、自分のやりかたがあるのです。
 
それが他者に致命的なほどの痛みをもたらすものでないかぎり、誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの?
 
「正義」とか「大義」って怖いよ。
 
イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127/p1

イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。」というのは、この間引用しているバタイユの「一般に、人間であるという事実のなかには、克服されるべき重苦しく胸をむかつかせる要素がある。」とおなじこと言っている。*1 わたしはバタイユは偉大だと言った。でもどこが偉大なんだろうか。
 「わたしのなかに直視できない悪がある(生きている)」と書くことは文字を並べると言う意味では容易だ。しかし「わたしは悪だ」という命題は矛盾を孕んでいる。悪が嘘つきであるならクレタ人のパラドックスになり内容を確定できない。哲学や文学が前提とするように「わたしは誠実に探求する主体であり、それがもっとも重要な客体である「わたし」を探求する」のだ、というときに、どうしようもない悪を(予想に反して)発見してしまった場合。その悪は前提としてあった「誠実に探求する主体」の誠実性を崩壊させる。破滅型私小説などに見られるが、作家であるという前提が崩れるところまで行ってしまう、しかしその前のいくばくかの間矛盾は読みにくい文章として文章化されることもある。
かって、「わたしは悪だ」はキリスト教仏教儒教で基本的命題として重要視されてきた。近代が成立するためにはこの「わたしは悪だ」を都合良く忘却する必要があった。世界を切り開いていくポジティヴな私というものはこの命題と両立しない。
わたしのなかの悪を直視することは、単にグロテスクなものが近すぎるところにあるという問題ではない。正義や倫理抜きの文化というものは存在しないし文化から自由な人間も存在し得ない。つまり悪の問題とは〈人間とは? 存在とは?〉を根源的に問われてしまう巨大な問題がグロテスクな肉の露出としてここにあることである。常人には耐えられない。この悪の存在の不可能な巨大さを、バタイユは抱え込みたじろいでいない。偉大とはそれに対する評価である。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090128#p1 に書いたのだが、どこが偉大なのかは解説しえていないだろう。
「ピラミッドやアクロポリスのように、アウシュヴィッツも人間の業績であり、人間のしるしである。」とは、アウシュヴィッツ糾弾はほどほどにしようと言っているわけではない。アウシュヴィッツに対して、まず「あやまちは繰り返しませんから」という喪の言葉を向けることそれは人間として必要な礼儀であるだろうが、そのことが悪を直視するという困難からひとを〈わずかに〉そらしてしまう。このわずかな距離が致命的な結果を生むこともある。*2 礼儀より大事なことがあるのだ。
 ユダヤ人排斥論をバタイユは「もっともさもしい衝動」とよぶ。「「道理や体験に対して不浸透性のままで」いたいという望み」、「融通のきかない群集心理」、「憎悪することによってみずからを高貴な者として表示すること」、サルトルはそれを以上のように評言しバタイユはそれに賛成している。「善と悪とは、かれにとって、生まれながらに決定的なものとして定められている。」と。

 ガザ攻撃を支持した8割のイスラエル国民(そして少なくない数の米国人)たちには、上記のサルトルによる形容詞がぴったりあてはまっている。*3ハマスは悪である。なぜなら彼らはイスラエル国家の存続を危機にさらすから。しかしそんな理由で隣国を攻撃できるなら世界は戦争で満ちあふれることになる。
 おそらくユダヤ人排斥論は嫌韓厨と同じで無力であることをその要件としていた。で、バタイユの短文にもあるとおり、ユダヤ人の普遍への同一化、自信は、無力であることをその要件としていた。のだろう。彼らに高度な武器を持たせたとき彼らの幼稚だが強力な論理は何を結果したか? 数百万人のパレスチナ人が代表として選んだハマスを殲滅するという選択。それがイスラエル国家の結論である。そしてそれに反対の意志を表明しないわたしたち。わたしたちはそんなふうに世界に和平をもたらそうとしている。
・・・


さて、id:fujiponさんは、「「正義」とか「大義」って怖いよ。 イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。」と言っている。
この言葉は「喪を組織するなかれ」というデリダの命令に、とても近い。「イスラエル的なものは、僕たちの心のなかにいまも息づいている」と同時に「ガザの惨状」としてあらわに映像化されている。アウシュヴィッツ*4に対しそれを糾弾することを自明とする常識を是認しながら、なおその悪が自らの内にあることを承認する。これは不可能に近い英雄的認識である。
fujiponさんは、悪ではなく、「正義」(つまり糾弾)を怖がる。悪は自らの内にある、したがって他者を裁くことはできない。*5

村上春樹作品というのは、実は、「目に見えないところ(あるいは、多くの人が目に留めないところ)で、ある種の『破綻の予兆』みたいなものを防ぐ防波堤になっている人たちの物語なのだ、ということなのでしょう。

 そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。(内田)

村上春樹がそういう作家であるとしたら、村上春樹エルサレムで賞を受けることは、(ガザの惨状を経て)人間世界の秩序は引き続き保たれることを祝(ことほ)ぐことになるわけで、イスラエル国家至上主義にとってとてもめでたいことですね。
「ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、」とfujiponは平然と述べられるが、「平和」「目的」とは何かがfujiponさんにおいて何なのかが全く突き詰められていないので論理になっていない、と感じた。

いちばん無難なのは、「受賞拒否」であることは間違いないですから。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090129/p1

「受賞拒否」なんかしたら欧米のマスコミから反ユダヤ主義として叩かれまくりますよ。イスラエルは優等生なのです。優等生が1300人殺した(そして殺しつづけるしかない)から批判されているのです。
(追記)

(fujipon)でも、「エルサレム賞」って、本当にそれだけの賞なんですかね?
選考委員のなかには、そういう人もいるのかもしれませんが、スーザン・ソンダクさんもわざわざ授賞式に出席された賞ですし、
それなりに「文学的な意義」のある賞であり、良心的な選考委員もたくさんいて、イスラエルの文学を愛する人に支えられている賞ではないですか?
本当に「政治色」だけの賞、「金正日最高文学賞」(そんなのないですけど、たぶん)みたいなのだったら、村上さんだって受賞拒否するはず。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090128/p2#c1233224760

やれやれ。最初の問題設定が理解できてないようですね。ガザの虐殺にもかかわらず、世界の良心的知識人の過半(8割以上)はそれを糾弾しないという態度決定をしている。エルサレムはもっとも聖なる町であり、エルサレム文学賞はもっとも権威ある文学賞である(だろうと思います)。問題は文学という制度を支える現実空間がガザ−エルサレムという局所において著しく歪んでいるということです。ガザは存在しない(世界の常識)か、そうでないのかの、どっちかです。

*1:バタイユの場合はアウシュヴィッツが対象だが

*2:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090107#p2

*3:と野原には思える。

*4:この文章では「ガザの惨状」と同価値としている

*5:国家の裁判制度に何も期待していないのなら筋は通っているが、おそらくそうではないのであろう。