松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

避けることが何らかの態度表明であるかのような問題

最後にもう一つ、本書*1を語るときにどうしても避けられない−−−避けることが何らかの態度表明であるかのような−−−問題、それがシオニズムイスラエル国の成立とアラブ難民をめぐる叙述であろう。(合田正人*2

 いやすいません。わざと分かりにくい文体で語る必要はない、ですよね。えっとレヴィナスというのは、良く知らないけどやはり偉大な哲学者だったようです。
でも彼は次のようなことを言うのですね。

 アラブの諸国民の側からイスラエルへと承認の身振りがもたらされれば、難民問題を解決するような兄弟愛の発露が間違いなく応答するであろう。(……)イスラエル国家の両側で、もし剣を砕いて鋤の刃とし戦車をトラクターに変えるならば、世界はそこから生まれる新たな可能性に震撼するであろう。/ 寸土の切除によって、アラブ人が住む広大な空間はその壮大な広がりをいささかでも失うのか。(レヴィナス*3

 イスラエルのガザ虐殺に怒っている学友諸君は、このまだるっこしい文章を読んでもすぐにある「意味」をひしひしと感じることができるでしょう。そうです。ハマスイスラエルの存続を根本から否認するような狭量さを執拗に主張しつづけることがなければ、・・・悲劇は起こらなかった。というのがイスラエルの言い分であり、レヴィナスの表現は婉曲で上品、哲学的な深みに富んでいるが結局同じことを言っているのです。
 落ち着いてくださいね。レヴィナスはそんなには悪くないのですよ。レヴィナスがこれを書いたのは今から50年ほども前のこと、イスラエルが今よりずっと弱かった頃なのですから。*4
 であるとしても、レヴィナスというのはとにかく、倫理や正義の卸問屋のようなポジションを今も維持しているそうした人物なのである。であるとすれば、今上記の数行を読むとは、イスラエル国家とガザ、西岸のパレスチナ人との現在の関係こそそれに反照させる、ようにしか読めないはずだ、と合田氏は言いたいのだ。

 レヴィナスの功績は、主体性を自発性にではなく、外傷性に基づけたこと、理性や普遍化可能性に基づかない倫理を浮き彫りにしたこと(もし理性が最終審なら、無時間的な原理を正しく適用するだけだろう)、そして時間性を独自な仕方で倫理問題に導入したこと、そして、もはや一刻の猶予も許されないという急迫の中で、本来の倫理問題が生起することを、正しく捉えた点にある。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/51671557.html

 このようなレヴィナスがあの野蛮なシオニズムを何十年も擁護しつづけたとは、およそ信じがたい。
 *5

*1:「困難な自由」isbn:9784588009051

*2:同書 p411

*3:同書 p412

*4:ただ、レヴィナスは1995年に死ぬまでシオニストだったようです。

*5:以上、 「避けること」によって内田樹は、イスラエル擁護者になり下がっているのではないのか、という説明。cf http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090115#p2