松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

自然的にわれわれに挿入されているもの

神の存在の認識は自然的にわれわれに挿入されている。なぜなら、われわれが端的な有・一・善を認識するとき、それらの第一諸概念においてわれわれはある種の混雑した仕方で神を一般的に認識しているからである。

むかし、ガンのヘンリクスという人がいて*1、その人の言葉。


わたし個人の実存の孤独や罪悪感との緊張感における神といったプロテスタント以降の常識は、この時代においては、成立しない。むしろわれわれにおいて認識というものが成立するためには「あらゆる概念に本性上(時間上ではない)先行する最も単純な概念」が必要である。まあ言ってみれば、パソコンが立ち上がるためにはまずバイオスが存在(始動)しなきゃいけない、みたいな、理屈として必然ですよみたいな議論の仕方である。


「ある種の混雑した仕方」というところで、私は朱子学の〈太極〉を思い出した。「もっと混雑した仕方」を中国人は好むのであるが、認識において根源を名差さなければならないという事情においては同じではないか。*2

*1:13世紀のスコラ哲学・神学者

*2:「天地は初めただ陰陽の気のみ」)朱子語類1・23 を読むと朱子は根元を措定すること自体を嫌っていたかにも読めますが。